「旅行に行くのよ」
手を引かれながら「何処に行くのか」と問うたら、姉はそう言って笑った。それで、荷物が多いことに納得した。
多いどころか、殆どだったように思う。生まれて間もなく両親を失い、父や母の友人だという大人に囲まれて育った私と姉の荷物は元より少なかったから。
「旅行」は、何度も飛行機を乗り継ぐ、それはそれは長いものだった。
***
ボンヤリと雪が降るのを見ていたら何故だか涙が止まった。
あちこち歩き回って足が棒のようになってしまい、酷く痛かった。でも。広いこの建物の中をどんなに捜し求めても姉の姿はなかった。
昨日の晩、少しだけ変だな、と思ったのだ。自分たちの部屋に入ってきた大人たちが姉の荷物だけを運び出してしまった。驚いた姉が抗議すると大人たちは変な日本語で答えた。
「検査ノ結果ダ」「君ハ日本へ帰レル」
「妹は!!??」姉は食い下がった。「志保も一緒に帰れるの?」
大人たちは答えなかった。「志保も一緒じゃなきゃだめ!!」。大人たちは顔を見合わせて頷きあった。「妹ノ荷物ハ明日ダ」。結局そう言って姉の荷物だけを運び出した。
だから昨日の夜、姉は一緒に寝てくれた。小さな私を抱き締めて寝てくれた。ずっと。ずっと一緒だから。お姉ちゃんが付いているから。そう言って手を握り締めた。泣いていたのかもしれない。
それで酷く安心できたのに、目覚めると姉の姿はなかった。ほんの少し鼻腔に残った嫌な臭い。それがクロロホルムという薬剤であったことに気付くのは何年も後のこと。
慌てて部屋を飛び出して、建物中を走り回って姉の姿を探した。途中で出会う大人たちは何も教えてくれないどころか言葉も通じない。部屋に連れ戻そうとするので逃げ回りながら、それでも走った。
たった一人の、肉親を探して。
もう走れない。そう思って座り込んだのがこの建物の中庭だったことを知るのはまだ先の頃。後から思えば、私は建物の中へ中へと走っていたらしい。
大人たちに見つからないように庭の隅に座って。両足を抱え込んで小さくなっていた。
「……お姉ちゃん」
生まれてからずっと傍にいてくれた姉がいなかった。幼い私にとって姉の存在が世界の全てだった。私の右手は常に姉の左手に繋がっていて、私たちは一つのものだと幼心にずっと思っていた。
姉が居る世界だけが、私の存在してよい世界だったから。
「……お姉ちゃん」
今、姉が居ない。
両足をぎゅっと抱え込んで小さくなり、私は雪の中で震えていた。消えてしまう雪のように、自分もこのまま消えてしまえばよいと思った。
姉が何故いなくなったのか。何処に行ったのか。
そんなことは考えなかった。
ただ、姉が居ない。それだけが、私にとって意味のあることで、同時に私自身を意味のないものにしていた。
「……お姉ちゃん」
手足の感覚が先端の方からなくなっていくのを感じながら、私はそれでいいと思った。そうして最後に、自分はなくなるだろう。
姉の居ない世界から、自分も消えてしまうだろう。
***
「なにを、している」
不意の声に私は顔を上げた。降りしきる雪の向こう、一人の人間を私は見出した。
男だろうということとと。大人ではない事が分かった。
「そんなところで、なにをしている」
「……」
「寒くないのか」
「……」
私は答えずに、相手の顔をじっと見ていた。
相手は、姉と同じくらいの年頃にも見えたし、もっと上にも見えた。とりあえず自分よりは大きいであろう事がわかった。
降りしきる雪に遮られて、顔はよく見えない。色素の薄い髪。瞳の色はわからない。黒いコートに黒いズボン黒い靴。その黒だけが、雪の中に妙にくっきりと際立った。
そう言えばここの大人たちは皆黒い服を着ている。その時、私はぼんやりとそんなことを思った。
「何処から来たんだ?」
「……おうち」
「何しに来たんだ?」
「……旅行」
「一人か?」
「……お姉……ちゃん……と」
私は再び膝を抱えて泣き出した。姉が居ない。私の隣に、姉が居ない。
こんな時、私の代わりにいつも答えてくれるのは姉だった。明るい声で、ハキハキと。最後に「ね」と言われて私はいつも頷くだけだった。
「姉さんは?」
「……居ないの」
「何処に行ったんだ?」
「……知らない」
そんなことは知らない。ただ、姉が居ない。
「お前、検査はしたのか?」
「……うん」
それが多分、昨日一日姉と引き離されて変な機械に入ったり、計算をさせられたり質問に答えたりしたことを指しているのだろうと思って私は頷いた。
「なんと言われた?」
「知らない」
その時になって。私は昨夜の大人たちの言葉を思いだした。彼らもまた「検査」のことを言っていた。記憶を手繰る。
「お姉ちゃんは……日本に……帰れるって……」
「……そうか」
ポツリと呟いた彼は、まだ雪の中に立っていた。
「お姉ちゃん……」
彼は私に近付こうとはしなかった。雪の中に立ちつくし、身動ぎもしなかった。降る雪が、彼にも積もっていた。
「帰りたいよ……」
日本に帰れば姉に会える。そのことだけが漸く私には理解できた。ホントに「日本に帰りたい」のではなく、ただ姉の側に行きたかったのだ。
「無理だ」
「どうして?」
「俺も、帰れない。ここに居る奴は、皆帰れないんだ」
「でも、お姉ちゃんは」
「それでも、お前は帰れない」
「お姉ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌……」
「無理だ。お前は、帰れない」
「どうして……。……お姉ちゃん……」
「……手紙を書いたり、電話くらいはできるさ。……検閲は入るけどな」
ケンエツの意味はその時はわからなかった。そもそも、手紙も電話も私にとっては意味がなかった。
姉の存在。姉が隣にいること。それが私の全てだったのだから。他のことには何も意味がない。
「お姉ちゃんが居ないなら……私……」
このまま消えてなくなってしまえばいい。雪と一緒に冷たくなってなくなってしまえばいい。
彼は、少し首を傾げた。
「ここできちんと言われたことを守れば、いずれは会える。日本にも研究所はある。優秀な成果を上げれば希望も通るだろう。何を、泣く」
「だって……お姉ちゃんが……」
「……お前が頑張って組織に貢献するなら、また会える。お前の姉はその為に生かされるだろう」
彼の言葉の殆どは意味がよくわからなかった。
「お姉ちゃんに、会える?」
「多分、な」
「お姉ちゃんが居なくても、私はここに居ていいの?」
「奴等がそう決めたんだ。別に構わないだろう」
「お姉ちゃんは何処に居るの?」
「日本だろう?お前が、そう言った」
寒かった。凍えそうに寒かった。生きる道をホンの少し見出した私に、寒さは一層激しく感じられた。
姉の温もりを切望したが、それはここにはなかった。彼もまた、その代役を買って出ようとはしなかった。元の位置から微動だにしない。
「お姉ちゃんに会いに、「旅行」に行ける?」
「ああ、行けるだろうな」
ほんの少し、彼は笑った。
「俺が、連れて行ってやる。その時が来たらな」
***
組織の資金集めの一員として駆り出された姉が、組織の手によって消されたことを知った時のことを。私は一生忘れない。
多分ジンシェリだと思います<多分って!!
明美さんと志保とジンの年齢関係がさっぱりわからないので、ちょっと書きづらかったです。
志保が18歳、でしたっけ?明美さんが例のデザイナーの所に行った時5歳で、志保がいなかったということは、
実は結構歳の離れた姉妹なのですよね。この二人。というわけで、志保4、5歳、明美さん10、11歳くらいで書いてみました。
ジンの年齢がわかんねぇーー!!
チビ新一は江戸川コナンとダブるのですが、チビ志保はあんまり灰原哀とダブりません。なんでだろ。
非常に子供らしい印象です。少なくとも明美さんと離れるまでは。こっから人格変わってくのかなー、とか。
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