月が綺麗。
青子はぼんやりと空を仰いだ。
雲ひとつ見当たらない群青の空に、満月が輝いている。
……月って、眩しかったんだ。
月の明るさが目に痛くて、青子はそっと目を閉じる。
快斗……。
ねえ、快斗。今のなんだったのかな。
***
深夜1時10分。
青子は一人で住宅街を歩いていた。
女子高生が一人歩きする時間ではないのは百も承知。それでも。
足音を殺して、静かに静かに。そっと。
正確には一人ではない。
その視線の先には、一人の学生服の男。
……絶対逃がさないんだから。
怪盗KIDの予告状。中森警部と白馬探が敷いた万全の警備を掻い潜って、予告通り宝石を盗んで行った。
青子も、父親の応援に現場に駆けつけていた。KIDのファンにもみくちゃにされながら、それでも必死に。
……お父さん、頑張って!!
やがて美術館の屋上からKIDが飛びおりて、警官隊が東に向かって動き始めた時に。
……あれ。
何か白いものが視界の端を掠めた気がした。
……今の、なに?
振り返った時にはそれはもうなんだかわからず。KIDを追おうと雪崩のように動き始める人の波に流されつつも。
一人の後姿が気になった。
学生服の少年。……KIDではない。KIDではないけど。
……もしかして、彼の変装?
さっき掠めた白は。彼に変装する前の一瞬?
慌てて人波から外れる。その手を、誰かに取られた。
「……紅子ちゃん」
「どこへ行くの?中森さん」
「今、KIDがこっちに」
「え」
どうして紅子ちゃんがここに居るんだろう。そんなことをぼんやり考えて。
ああ、そうか。紅子ちゃんも「好き」って言ってたな。怪盗KID。……悪者なのに。泥棒なのに。
「……西はおよしなさいって言ったのに」
「え?」
「で、貴方はそれを追おうと言うの?」
「だって、怪盗KIDだよ。捕まえなきゃ」
「ホントに怪盗KIDだったの?」
「それは、よくわからないけど」
人の怒号に混じって、聞き間違えるわけのない中森警部の声が聞こえる。「東だ!!KIDは東に逃げたぞ!!」
……お父さんがそう言うんだから、やっぱり青子の勘違いかな。
でも。
「それに、もし貴方が追おうとしている相手が本当に怪盗KIDだとしたら」
青子の手をつかむ紅子の手に、僅かに力が加わった。気がした。
「追わない方がいいんじゃないかしら」
「なんで?」
ふわりと、手が離れた。
立ち止まる青子。東に流れる人の波に呑まれる紅子。
一瞬だけ逡巡して。
青子は西に急いだ。
***
深夜1時23分。
青子の前を行く男は、僅かに足音をさせながら規則正しい歩調で住宅街をどんどんと進んでいく。
紅子と逸れて、西に向かって。それでもすぐに青子は目的の男を見つけることができた。
美術館での騒ぎは、もうここへは届いていない。
しんと静まり返った住宅街は。猫の仔一匹見かけない。
ただ、彼と。彼の足音と。彼の影と。青子の影が。
静かに静かに進んでいく。
……ねえ、ここって。
怪盗KID、だと青子が思ったその男は、どんどんと住宅街を進んでいく。ゆっくりと。ゆっくりと。
逃げる風も、慌てる風もなく。
青子の尾行に気付いていないわけがないのに。
……こっち、青子の家の方だよ。
そして。その先には快斗の家がある。
……快斗、今何してるかな。
今日学校で。怪盗KIDの話題が出た時にも、快斗は相変わらずKIDの肩を持つばかりで。
「ねえ、快斗も見に行こうよ」
「やだね」
「なんでよ!!快斗のケチ!!一緒にお父さんの応援してよ!!」
「応援してるけどさあ。でも俺、KIDにも頑張って欲しいから中立ってことで」
「ってことでじゃないわよ!!快斗のバカ!!バ快斗!!」
「誰がバカだよ!!アホ子!!」
「バカは快斗に決まってるじゃない!!バカバカバカバカ!!」
「うるせーな、青子は。俺は今日はマジックショー見るんだよ!!」
ばっかみたい。
もし今。怪盗KIDを尾行中だと連絡したら、快斗は一緒に捕まえるのを協力してくれるだろうか。
鞄ごと、携帯電話を抱きしめる。
その時。
ピタリ、と男が立ち止まった。
***
深夜1時38分。
虚を突かれた青子は一歩も動けずに。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる男から視線を外せない。
……なんで?
自分に向かって歩いてくる、それは。
「お嬢さん。深夜の一人歩きは危険ですよ」
「……快、斗?」
「世の中、どんな悪者が居るとも限りません。さあ、早く家に帰らないと」
「快斗、なの?」
「さあ。ちゃんとお送りしたのですから」
「え」
振り返るとそこは青子の家の前。快斗のことを考えて少しぼんやりしていたので気付かなかった。
そして今。その幼馴染が目の前に居る。
予想もしなかった展開で。
「快斗、なの?」
「ばぁか。んなわけねえだろ」
口調が。ふっと変わる。そこにあるのは、いつものあの悪戯っ子のような笑顔。
……快斗、なの?
しかし男はすぐに表情を改めた。
「通りすがりのただの怪盗ですよ、お嬢さん」
「え」
伸びてきた男の右手が、青子の右手を取って。
その手の甲にふっと唇が近づく。
その瞬間。
これ以上ないくらい景気良くスカートを捲られた。
「きゃ、きゃああああああああ」
慌ててスカートを抑える。
「じゃあな。お嬢さん」
「ちょ、ちょっと!!」
「そんなんで俺を捕まえようなんて、百年早いぜ」
「や……やっぱり!!怪盗KID!!」
ふわり、と白い姿が青子から離れる。逆光に加えてシルクハットのつばにやる手に隠れてその顔はわからない。
「今時珍しい可愛いウサギさんに免じて。こいつは返してやるよ。お嬢さん」
ぽんと投げられたそれを慌てて受け取る。
ウサギ……ウサギ……って……。
「こ、これ、宝石!!って、ちょっとーー!!怪盗KIDのスケベスケベどスケベーーーーーーーーーー!!」
重力に反するような軽やかな動きで青子の方を向いたまま後ろ向きにジャンプして。塀の上、そして民家の屋根の上へ。
「じゃあな。お嬢さん」
「ちょっ……ま、待ちなさいよ怪盗KID」
「それではまた。月の明るい晩に」
屋根の上で恭しく一礼。背中に満月を背負ったその姿は逆行で全くわからない。
ふわり。
青子の目に止まらぬ早さで、怪盗KIDは姿を消した。
***
ぼんやりと見上げる月が眩しい。
今のは。
ねえ、今のは?
快斗。じゃない、よね?
怪盗KIDだったんだよ、ね?
そうだよね、快斗。そうだったんだよね?
***
「へええ」
「もーーーーーーーーー!!怪盗KIDったら頭にきちゃう!!」
「いいじゃねぇかよ。宝石、帰ってきたんだろ?」
「良くないわよーー!!あのバカ怪盗!!青子のことバカにしてーーー!!」
「しょーがねーじゃん。ホントのことだし」
「どういう意味よ!!」
翌日の朝、H.R.前。江古田高校には珍しくもない日常。二人の間には呆れた顔をした桃井恵子。
「快斗も少しは悔しがってよ!!KID、快斗に変装して青子のこと騙そうとしたんだから!!」
「別にいいじゃん。怪盗KIDに変装されるなんて、俺としては光栄だけど」
「もう!!快斗はいっつもそうやってKIDの肩持つんだもん」
「だいたいさぁ。騙される青子が抜けてんだよ」
「騙されてないもん!!青子は、KIDだ!!って思ったから付けてったんだもん!!」
「でもそれ、ホントに怪盗KIDだったのかなあ」
「なんで?」
「だってその人、青子のスカート捲ったんでしょ?」
「そう!!思いっきり捲るんだもん!!エロ怪盗!!」
「エロはねぇだろ、エロは。KIDだって好きでそんな色気のねぇもん……」
「やっぱりおかしくない?」
恵子は腕を組んで首を捻った。
「あの快盗KIDがそんなことするかなあ」
「細かいこと言うなよ。あ、先生来たぜ」
青子と恵子は慌てて自席に戻る。隣の紅子が身を乗り出して快斗に耳打ちした。
「随分、迂闊なことしてるじゃない。怪盗さん」
「だーかーらー。俺は怪盗KIDじゃねぇって」
「だから西はおやめなさいって忠告したでしょ?」
「あのなー」
「考えたものね。彼女の前で怪盗KIDに変装するなんて」
「……おめぇ……人の話聞いてねぇな」
「あら。貴方が怪盗KIDだって証拠なら、あるわよ。今度の件を見ても」
「……どの辺にあるってんだよ」
「スカート捲られたんでしょう?中森さん」
「それで俺だって言うのかよ」
確かに。ちょっと迂闊だったかもしれない。
……調子に乗りすぎたかな。
「まあ、それもあるけど」
「他に何かあるのかよ」
「怒らないのね、黒羽君」
「ありもしないこと並べ立てるお前にはちょっと怒ってるぜ」
「違うわよ」
薄く、薄く紅子は笑みを浮かべて。
「……他の男が中森さんのスカート捲ったりしたら、貴方もっと怒るんじゃない?」
「ばっ」
乗り出しかけたところで、後ろから思い切り叩かれる。
「……黒羽君。座りなさい」
「はい」
クラス中が爆笑する中、快斗はしぶしぶと席に着いた。
「やっぱり。図星ね」
「……勝手に言っとけ」
今日も空が青い。雲ひとつない空。
……今夜も、月が綺麗だろう。
というわけでー。何がしたかったのでしょう黒羽快斗。
いつから青子ちゃんの尾行に気付いてたのか。なんで青子ちゃんの前で快盗KIDの姿になろうと思ったのか。
つか、なんとなく。青子ちゃんには絶対に知られたくないという気持のどこか奥底に、青子ちゃんには知って欲しいと思う気持が
あるんじゃないかなーとか思うことがあるのです。どうでしょうね。
なんつかそういう、微妙なバランスみたいなものがあるんじゃないかと思ったりするんですよ。
違うかなー。
そういう危うさも持ちながら。でもやっぱりスカートは捲っちゃうわけですよ(笑)。小学生かお前は。
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