大きな溜め息を一つついて。
工藤優作は漸く現実世界に戻ってくる。
ずっとキーボードを叩いていたので、10本の指全てが腱鞘炎になりそうだ。
それでも。
ペンで原稿用紙に一文字ずつ書いていた時に比べれば。随分マシなのだが。
もっとも。
人気小説家工藤優作の場合。執筆にかかる時間が削減された分、世に出す作品数が増えただけで。本人の労力は変わっていない。結局は好きでやっていることなのだ。
「はあ」
も一度。溜め息。もう三日も禄に寝ていない。
疲労はピーク。
それでも。
「有希子」
愛しい妻の名を呼ぶ。
が。
返事がない。
……聞こえなかったかな。
しぶしぶと優作は。書斎を出た。
***
明るい居間。日光を存分に取り入れられる大きな窓は、妻のお気に入り。
ずっと書斎に籠っていたので。目がシバシバする。
「有希子」
やはり返事はない。
……おかしいな。
いつもなら自室にも戻らず、この書斎隣の居間に毛布を持ち込んで。下手をすると書斎前の廊下に蹲って。夫の仕事が終わるのを今か今かと待ち構えていたのに。
……確かに。体を壊すから止めろとは言ったけど。
本当に止められると。それはそれで寂しくもある。
広い居間は。それなりに掃除はされているものの、今日はどこか雑然としていて。
修羅場明けの優作をげんなりとさせた。
……なんで。彼女と結婚したんだろう。私は。
ミステリー小説の大家である優作にとって。
それは人生最大のミステリーだった。
……今日が修羅場明けだって。知っている筈なのに。
修羅場中に。しつこいほど何度も何度も。
いつになったら遊んでくれるのかと。
確認していたくせに。
……全く。どこに行ったんだ?
思えば。結婚以来始めてかもしれない。
修羅場明けに。妻がいないのは。
と言っても。まだ漸く結婚一年目を迎えたばかりの新婚なのだが。
……もう。飽きたのかな。
今までは。修羅場が明けるのを根気よく。時には一緒に徹夜までしながら。待っていてくれて。寧ろ待ち構えていて。
そして一番に。それはもう、美味しい紅茶をいれてくれていたのだが。
貞淑な。良くできた妻を演じるのに飽きたのかもしれない。演技には見えなかったのだが、何しろ敵はその道のプロで。その実力は優作も認めるところなのだ。
……元々。気紛れな女だから。仕方ないんだろうな。
明るくて。寧ろ派手で。とても家庭に収まるタイプではない。
……なんで。こうなったんだろう。
好みのタイプは、と問われれば。一も二もなく「大和撫子」と答えて来た優作である。
物静かで家庭的で。滅多に声を上げて笑わない。来客は歓迎するが自分は滅多に家から出ない。
夫が取材旅行に言ってる間も。原稿に追われて書斎に困っている間も。
じっと待っていてくれるような。
家に縛り付けたいと言うより、家に居て欲しいので。そのための努力なら惜しまない覚悟で。
茶道が趣味なら茶室を。ガーデニングが趣味なら広大な庭を。華道でも歌道でも書道でも絵画でも。
家で教室が開きたいなら離れくらい建ててやろう。
それくらいの覚悟だったのに。
それのに。
……なんで。あの女なんだ?
人生最大のミステリー。
かねがね口にしていたのとは寧ろ正反対の女性に。
まさか自分の方から恋に落ちて。
口説きに口説いて結婚したのだから。
自分で自分が分からない。この謎は。どうしても解き明かせない。説明がつかない。
まるでマジック。
……悪妻を娶れば哲学者になれるってヤツか?ソクラテスじゃあるまいし。
寧ろ世間の評判はそんな感じだ。
けれど。
……なんで彼女なんだろう……。
自分でもそう思う。
けれど。
恋に落ちてしまったのだから。こればかりは自分でもどうしようもない。
「はあ」
大きな溜息をつくと。近くにあったソファに座る。テーブルの上には、食べかけのサンドイッチ。冷めたインスタントのポタージュスープ。
卓上カレンダーには。今日の日付に大きな花丸。
「……」
何とはなしに先月を捲る。その前も、その前も。
優作の締切の日には必ず赤で二重丸。しかし、花丸は一つも見当たらない。
「ああ。そうか」
疲労感が増した。
……今日は……私の誕生日じゃないか!!
それなのに。
愛しい妻は居ない。
多分。数時間前まではいた筈なのに。そして妻だって。今日がその日だと分かっている筈なのに。
一体。どんな大事な用があって。どこに行ったというのだろう。
……仕方が無い。探すか。
徹夜続きで今すぐ寝たいくらいだが。夫として。一言二言言ってやらないと気が済まない。
喧嘩になれば。向こうがヒステリーを起こすのは目に見えている。
それが。自分の疲労を助長するだけだとはわかっていても。それでも。
ノロノロと電話に手を伸ばす。心当たりに適当に電話をしていけば、そのうちヒットするだろう。
受話器を取り上げたその時。
***
玄関の物音に。優作は慌てを居間を飛び出す。
「有希子!!」
「優作!!」
閉まる玄関の向こうから僅かに車の発進する音。タクシーで帰って来たのだろう。
サンダルを投げ捨てるように脱ぐと、有希子は優作に飛びつくように玄関に上がる。
庭に出るためのどこにでもある安いサンダル。
……こんな格好で、外に?
普通の主婦ならいざ知らず。引退したとは言え今でも芸能誌のリポーターに追われかねない元TOPアイドル。
それが。
ノーメイクで。髪も無造作に束ねただけ。ラフな格好で、庭用サンダル。
それでも十分に美人だし、元芸能人オーラは十分なので。きっとタクシーの運転手にだって気付かれていただろう。
「ゴメンネ、優作!!遅くなって!!」
「こんな時間にどこに行ってたんだい?」
詰問するつもりが。酷く優しい声音になってしまって自分でも苦笑。
ちなみに今は。朝の6時なのだ。
「ゴメンなさいね!!原稿、終わったの?」
「勿論……」
「じゃあ、お茶を入れるわ。優作の大好きなダージリンの……」
「ちょっと待ちなさい、有希子……」
「なあに?あ、ゴメンなさい!!忘れてたわ!!はい、お疲れ様のキス」
「んーーって違ーーーう!!」
ギャグ漫画のように。一人ノリ突っ込み。
寧ろ有希子の方が。その大きな瞳を見開いて。あっけに取られて。
「優作、疲れてるの?」
「そりゃまあ……ちょっと……疲れててね。今のは忘れなさい」
「お茶、要らない?もう寝る?」
「お茶は……貰おう。その前に」
「なあに?」
「何か私に言うことがあるだろう」
別に。約束していたわけではない。
原稿中はずっと放ったらかしだったのだ。有希子にだって不満は幾らでもあるだろう。
わかってる。それくらい、わかっているけど。
……一言くらい。詫びて然るべきではないのか!?
「……お茶の時じゃダメ?」
「今言いなさい」
「やっぱり優作って凄いのね。隠し事なんて出来ないんだから……」
……当たり前だ。こっちは推理のプロだぞ。
「優作。あのね」
何故だか酷くはにかんだ表情の有希子に。騙されるものかと優作は虚勢を張る。
「……お誕生日、おめでとう。優作」
「だから。そうじゃなくて」
「あのね」
有希子が優作の耳に口元を寄せて。そっと。
「貴方、来年の春には。パパよ」
「え……?え?ええ?えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!?」
***
曰く。
最近体の調子がよくなかったところに今朝酷い吐き気に襲われて。
期待と不安を胸一杯に病院に駆け込んで。結果を聞いて飛んで帰って来たと言う。
「……そう言う時は。電話をしなさい」
「だって、優作の驚いた顔を見たかったんですもの」
「大体。吐き気がしたなら、私に言えばいいだろう」
「だって貴方。お仕事中だったじゃない」
「それは、そうだけど」
細くて綺麗な指が。同じくらい繊細なティーカップを差しだす。
そのまま定位置の斜向かいに座ろうとするので。
「有希子。こっちに来なさい」
「なあに?優作」
小首を傾げて隣に座る。その肩を。そっと抱き寄せた。
「……すまなかったな」
「え?なぁに?」
「その……暫く……放ったらかしていて……」
「あら。だってそれはお仕事ですもの。仕方ないわ」
「それは……そうなんだが……」
まさか。さっき思ったあれこれは。告げられない。
「君はやっぱり最高の奥さんだ」
「嬉しい!!……でも急にどうしたの?」
「最高の……」
その頬にそっとキス。
「最高のプレゼントを。ありがとう」
すみません。「優有」のリクを見た瞬間に心に決めてました。まさかリク頂けると思っていなかったこのカップリング!!うわぁい!!
ホントもう半端なく大好きなんですこの二人。しかも「出会い」設定引き摺ってる感じなんですけど、これでよかたでしょうか……ドキドキ。
「出会い」でも書きましたが。この二人は嵐のような出会いだとよいなと思ってます。一目惚れ?
そして優作さんにとっては大誤算というか予想外の恋だとよいと思うのです。「おかしい。こんなはずじゃ」と言いながらメロメロ希望。
有希子さんはなんだかんだでいい奥さんだとよいと思います。掃除も料理もそれなりにこなすのではないかと。
工藤家には別にお手伝いさんが居た様子はありませんし。阿笠博士も料理が下手なので助けにはならなかったはずですし。萌え!!
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