和葉の朝は、早いです。
と、言うより。朝も昼も夜も寝ては起き、起きては寝ての繰り返しなので。そもそも朝だろうがなんだろうが。和葉にはあまり関係がないのです。
朝。新聞を取りに行く物音で。
二階で寝ている和葉は目を覚まします。
……ご飯の時間や!!
幼い和葉にとって。ご飯の時間は重要です。
ご飯と平次とどっちが好きかと問われれば。考え込んでしまうくらい、重要です。
眠っている平次を残して。和葉は素早く起き上がると軽い足取りで部屋を飛び出します。
和葉は。平次よりも速く走れるのです。……多分。
しかし飛び出したのも束の間。
階段の上で和葉の足はストップ。
ゴクリと。ツバを飲み込みます。
毎日毎日。しかも一日に何回かは。和葉はこの敵と戦うのですが。未だに勝てた例がないのです。
敵の名を。階段と言います。
服部家は。一階も屋根が十分に高いので。二階への階段は結構急で。段差も大きく。そして長いのです。
初めてこの階段を上った時は大変でした。
それはもう必死で。全力で。
上り切った時には疲労困憊でした。
あれから一週間。
和葉は随分大きくなりました。
階段も。以前よりはずっとスムーズに上れます。
前脚をかけて攀じ登るのではなく。後脚でジャンプして上るのです。
但し。
それでもまだ子供なので。ピョンピョンと軽快には行きません。
一段上る度にプルプルとお尻を振って。
勢いを付けて。
それで漸く上れるのです。
閑話休題。
その階段を今。和葉は下りなければならないのです。が。
一番上で階段の下を見下ろすと。いつだって和葉の足は竦んでしまうのです。
前述の通り。階段は酷く急で、そして長くて。それで居て幅は余り広くなく、下は暗く見えます。
階段の電気も、そして廊下の電気も。和葉にはつけることができません。
それでも。
……ご飯!!ご飯!!
和葉は。一段一段階段を居り始めました。
……今度こそ!!
丁寧に。丁寧に。一段一段。ピョン、ピョン、と降りていきます。
この家に来た頃に比べれば、和葉はちょっと大きくなりました。前脚も、随分確りしてきました。
けれど。
まだちょっと。お尻の方が大き目なものですから。ちょっと油断すると……。
……ニャ!!
グラリとバランスを崩した和葉は。そのまま。ポテンポテンと階段を転がり落ちます。
あと、3,4段というところでしたし。体の柔らかい和葉にとってそれくらいの段差を落ちることはそれほどのダメージではありません。
しかし。敗北は敗北。
ちょっと疲れてきて、後もう少し、という所で。いつもこうしてバランスを崩して落ちてしまうのです。
ポテン。
そのまま体勢を立て直すこと叶わず。和葉は階下の廊下まで落ちきりました。
……今日もあかんかった!!
しかし悔しい気持ちも。台所から聞こえてくる缶切りの音に、一気に霧散します。
……ご飯や!!ご飯や!!
和葉はまだ小さいので。固形の餌は食べられません。柔らかい缶詰のご飯を貰っています。
普段は余り缶詰を利用しない服部家に於いて。缶切りの音は、即ちイコール和葉のご飯の音と言っても過言ではありません。
……ご飯や!!ご飯や!!
さっき階段に敗北したことなど。もう何処へやら。和葉は一目散に駆け出しました。
台所には静華さんが居て。丁度和葉のご飯をお皿に移し替えたところ。
「和葉ちゃん、おはよう」
「うにゃん」
きちんとご挨拶したかったのに。逸る気持ちに口が微妙に半開き。
すかさず走り寄って。早速お食事タイムです。
犬と違って、お座りとか。待てとか。そんなことはしません。
それでもいいのです。それでも怒られません。
「和葉ちゃんは今日も元気やねえ。ええ子やねえ」
と。優しく頭を撫でて貰えるのです。
「ふにゃん」
応えた途端。口の端からご飯がポロリと落ちました。
和葉が慌ててお皿の外に落ちてしまったご飯を食べようとした時。
「おお。和葉ちゃん、ご飯か」
平蔵さんです。
「みゃあ」
和葉が応えると。細い目が更に細く。静華に言わせれば溶けてなくなるほどに細くなりました。
平蔵さんは大きな人です。和葉がどんなに背伸びをしても、顔がよく見えません。
でもいい人です。とても優しいです。
平蔵さんはあまり家には居ませんが。でも家に居る時に和葉が「遊んで」と言うと。それはもう嬉しそうに遊んでくれるのです。
平蔵さんは大きいのに。でもとても小さな声で話します。
何故かは。和葉は知りません。
この家に初めて来た時に。
平蔵さんの大きな声に吃驚して逃げ出したことなんて。
小さい和葉はもう覚えていません。
「ふにゃん」
もう一度応えると。大きな手が和葉の小さな頭を撫でてくれたので。
和葉は喉を鳴らして応えます。
そして満足して。またご飯を食べ始めます。
平蔵さんが物足らなそうに。ちょっと寂しげに。ご飯に夢中の和葉を見て居ることも気付きません。
和葉の小さな頭は。もうご飯のことで一杯です。
「ほら。いつまでもそんなとこしゃがんでへんと。邪魔やで?」
「静……」
「あんたのご飯はあっち。ほら、しゃんとして。さっさと事件解決せな、泊まり込みになんなったら和葉ちゃんに忘れられてまうよ?」
「そ、そやな」
平蔵さんが居間に向かう頃。
和葉は漸くご飯を食べ終わります。
「ふにゃ」
口の回りのご飯を嘗めながら。静華さんに、終わったよ、と言って。
和葉は毛繕いを始めました。
丹念に、丹念に。肩から前脚。それから首回りからお腹にかけて……。
不意に。
完全に後ろに寝て居た耳が。ピンと立ち上がります。
細い尻尾も。ピン。
そして一目散に駆け出します。駆けて駆けて駆けて。
階段に。飛びつきます。
お尻を振って、ピョンと一段。またお尻を振って、更に一段。
けれども和葉がそう何段も上らないうちに。
轟音にも近い足音が降って来たかと思うと。
和葉の小さな体はフワリと宙に浮き上がります。
「おはよーさん!!和葉!!」
「にゃあ!!」
肩に乗せられて。和葉は必死にしがみつきます。
……平次、おはよー!!
そう応えたいのに。和葉はにゃあとしか言えません。
「にゃあ。にゃあにゃあにゃあ。ふにゃあ」
……平次、平次、あんな。おばちゃんにな、ご飯もろたん。あんな、今日はサーモンやって。
「なんや和葉。ご飯まだなんか?おかん、和葉のご飯は?」
「さっきあげたよ。それよりあんた。階段、もうちいっと静かに下りれへんの。やかましゅうてかなわんわ」
「せやかて起きたら和葉おらんのやもん」
「あんたがノンビリ寝てるからやろ。もう少し早起きせな。ほら、あんたもあっちで朝ご飯食べ。幼稚園遅刻すんで?」
「はぁい」
和葉を肩に乗せたまま。平次はまた居間まで駆け出します。
……平次、平次!!すっごい!!速ぁい!!
和葉はご機嫌です。あっと言う間に居間に到着。
「平次。廊下は静かに走れ」
「あ!!おとんや!!なあ、今日非番?ずっとうちにおんの?」
「いや。飯食うたらもう行く」
「そうなんや……なあ、今度は何なん?強盗?殺人?」
「んー。詐欺、殺人やな」
「詐欺って人騙すやつやんな。殺されたんどっち?」
「騙した方や」
「ほな、じごーじとく?」
「そうでもないなあ」
「なんで?」
「そらまた今度やな。早よ飯食べな、幼稚園遅れんで?」
「せやかておとん。次いつ帰ってくんねん」
「この事件が解決したらや。まだ途中やさかい。全部終わったら話たる」
「ちぇーー」
箸と茶碗を握り締め。平次は口を尖らかす。
「和葉も。おとんの話聞きたいやんなあ?」
「にゃあ」
……アタシは。平次のお話聞けたらそれでええよ?
「ほら。和葉かてそう言うてるやん」
「あかん。早よ飯食え」
「はーーい」
……アタシは。平次がおってくれたら。それでええよ?
「にゃあ。ふな、ふにゃん」
「なんや和葉。ご飯貰たんとちゃうんか?せやかて和葉の食べれるもん、なんもないで?」
……違うもん。遊んで欲しいやもん。なあ、平次。遊ぼ。なあ、遊ぼ?
チョイチョイと。煮物を持つ平次の箸に手を出します。
「ふにゃん。なあああああ。なあ。にゃあ」
「なあ、おとん。和葉、里芋食べるんやろか」
「そら無理やろ。ボールかなんかと間違えてるんとちゃうか?」
「和葉。あかんて」
……違うもん!!そんなんいらんもん!!遊んで欲しいの!!毬投げて、なあ、平次!!
「ふにゃん!!にゃああ!!にゃあ」
「和葉!!あかんて、こら!!」
「ふにゃ!!にゃにゃ!!」
「あかん!!和葉!!」
「にゃあ!!」
……平次なん、もう知らん!!
ふいっと。和葉は居間を走り去ります。
……平次なん、もう知らん!!知らんもん!!平次のドアホ!!
走って走って。一人で遊ぼうと赤い毬を探します。
和葉が初めてこのお家に来た時に部屋にあった毬です。何度も何度も和葉が糸を爪で外してしまうので、静華さんがその度に直してくれるのですが。和葉にはそんなことは関係ありません。
走って走って。毬は玄関にありました。
……毬や!!
瞬間。平次のことはどこへやら。
……毬や!!毬や!!毬や!!
和葉は夢中で遊びます。
和葉は平次と遊ぶのが大好きですが。平次が居なくてもこうやって一人で遊べるのです。
だから。
「ほら、二人とも急いで!!何時やと思てんの!!」
静華さんにせかされて。平蔵さんと平次が慌ただしく玄関にやってきます。
あっと思った時には。和葉はヒョイと静華さんに抱き上げられていました。
「ほな、行ってくるで、静」
「……気ぃつけてな」
「おかん、和葉!!行って来ます!!」
「はいはい。転ばんようになぁ」
「ふにゃぁ!!」
「ほら、和葉ちゃんも。行ってらっしゃいって」
……ちゃうもん!!和葉、そんなこと言うてないもん!!
「ふにゃあ!!なああ!!」
必死に。そうじゃないと伝えたくて声を上げる。
と。
平次が振り返って。
「帰って来たら遊んだるから。待っとけよ、和葉」
「ふにゃん!!」
……待ってるからにゃ、平次!!
「大脱走」以来の仔猫和葉でした!!……たくさんたくさんリクエストを頂いた仔猫和葉でした。が……。
なんつか、和葉を仔猫らしく書けば書くほど、ラブくなくなるっつか。だってほら、猫って気紛れなんですよね……。
でもそこが可愛いんですよね……可愛いいんですけど……ラブくならない。って、うちの平和はいつもラブくないんですけど(爆)
基本擦れ違ってて。でもちゃんと繋がってると良いなと思いますチビ平次と仔猫和葉。
ちなみに仔猫和葉も可愛いですけど、平蔵さんも相当可愛いですよね。
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