ああもう。ホントに。
「はあ」
バケツをひっくり返したような空に。和葉は何度目か分からないため息をつく。
そんなため息すら、雨音に吸い込まれて。
バケツなんてモンじゃない。ガッコのプールくらい?ううん。もしかしたら琵琶湖一個分くらい。
空は。それをひっくり返したようにこれでもかこれでもかと、雨粒を落として。見慣れた街を灰色に染め上げる。
「はあ」
ポケットを探って取り出す携帯は、ボタンを押しても反応しない。
昨日。充電を忘れて。
今日。友達と梅田で待ち合わせたら、先方が遅れて。
その後合流に苦労したものだから、ちょっと前に幼馴染に電話をしたのを最後に、電池が切れてしまったのだ。
「あ、平次」
「なんや、どないしてん。お前今日は梅田に行ってたんと……」
「あんな、平次。電池やばいん。平次、今、何処?」
「何処って、家やけど」
「暇?」
「暇っちうわけでも……」
「あんな。アタシ、傘忘れてん」
「あっほやなぁ。今日雨降るなん朝から天気予報でずっと……」
「もう!!電池やばいの!!せやから、ごめん、平次、駅まで迎えに来て貰えへんかな」
「はあ?なんで俺がそんなん……」
ピー。ピー。ピー。
無機質な警告音と共に。それっきり。
それでも。少し待つと携帯に電源が入るのだから自分同様未練がましいったらありゃしない。
それも発信ボタンを押すと切れてしまう。
繰り返すうちに、やがて何も反応がなくなった。
「はあ」
平次は。来てくれるだろうか。
電話の声は。最初からなんだか機嫌が良くなかった。
家に居た、ということは事件の捜査中ではないと思うけど、でも絶対とは言えない。
あの幼馴染は。事件と自分だと、当たり前のように事件を優先する。
まあ、それが平次やし。
それに、まだ事件と決まった分けちゃうし。
壁に寄りかかってボンヤリと視線を上げる。
雨脚は一向に弱まらない。どころかドンドン強くなってる気がする。
何よりも、風が出てきた。
傘をさして道行く人たちは、傘にしがみ付いている。
一陣の風に。
和葉の前を横切る女性の風が一瞬で裏返った。
「きゃあ!!」
驚いた女性の手から買い物袋が落ちて、グレープフルーツがコロコロと和葉の足元に転がってきた。
「はい」
「どうも。おおきに」
疲れたように顔に張り付いた前髪を掻き上げて、女性は小さく笑うと和葉の手からグレープフルーツを受け取った。
「酷い、雨ですね」
「ホンマに。お嬢さんは、お迎え待ち?」
「ええ、まあ」
「そう。早く来てくれたら、ええね」
「はあ」
小さく会釈して。女性はまた風上に向かって傘を向けて、小さなその体ごと傘に隠れるように住宅街の方へ歩いていく。
和葉も、振り返らないその背中に小さく会釈した。
平次は、来てくれるだろうか。
本当は。ちゃんと連絡が取れて、来て貰えることになったら。本屋とか、どこかでお茶してるとか。
そうやって時間を潰して居ようと思っていたのだが、それも叶わなかった。
もし。来てくれたとして。上手く合流できなかったら困るし。
いつもの待ち合わせ場所、は幾つかあって。迎えに来てもらう身であちこち巡らせるのはどうかと思うし。
やっぱり駅に居るのが一番。だと思う。
改札の前も考えた。
でもここなら。平次が来てくれたら直ぐ分かるから。
そう思って改札を出て、階段を下りたところ。屋根があるから、濡れるわけではないし。
一人ぽつんと立っているのは、暇、だけど。
贅沢は言えない。
せやけど……、ホンマに来てくれるかな。
あれからもうすぐ30分。
直ぐに家を出ていれば、この雨風でもとっくに駅に到着していておかしくない。
……と言うことは。
やっぱり、来てくれへんのかな。
ちょっと濡れるのを覚悟して。横断歩道の向こうに見えるコンビニで、ビニ傘を買うという選択肢も、当然ある。
こんなことなら、最初からそうしておけばよかったのだけど。
でも。
それやったら。
もし。
もしも、平次が来てくれたら。
やっぱり、悪い、し。
「はあ」
もう一度大きく大きくため息。
そのため息もまた。激しい雨音に掻き消された。
***
そろそろ、一時間。
流石に決断のしどころかも知れない。
それに。
少し、風も、収まってきた。気もするし。
次の信号が青になったら。走って横断歩道を渡って、あのコンビニに駆け込もう。
そしてビニール傘を買って。
きっと。
もう、平次は来ないから。
そう思いながら。信号が点滅するのをボンヤリ見送って。
赤になった信号が、ドンドン雨に滲んでいく。
……雨や。
視界が悪いのは、雨のせいだ。
そう思うのに。どんどん視線が下がって。
もう、信号も確認できなくて。
別に。
約束してくれたわけではない。
幼馴染だって、自分の都合があって。こんな雨の中、こんな風の中、早々迎えにきてくれるとは限らないのだ。
そんなことは、当たり前だ。
世界は自分を中心に周ったりはしないのだ。
わかってる。
わかってるのに。
「なんやお前。ナニ泣いてんねん」
この声が。
死ぬほど嬉しいのは、何故なのだろう。
顔は上げられないまま、答える。
「あ、アホ。泣いてなん、か」
「なんや。俺が中々来ぉへんかったから、心細かったんか?」
「だ、誰が、心細くなん、か」
「ほ〜?」
「雨の中迎えにも来てくれへん、薄情な幼馴染を嘆いてたんよ」
「アホか。お前は」
傘の柄で、軽く小突かれる。
「あーんな雨風んなか、傘あったかてないも同然やで。傘差すくらいやったら、濡れた方がましや」
「なんで?」
「風で、傘ダメにしてまうんが落ちや。ぎょうさんおったでぇ?傘ダメにしてまうやつら」
「それは、そうやけど」
そう、だけど。
「平次、なんでそんなびしょ濡れなん?傘、持ってんのに」
「せやからこんな雨風の中傘差したかて無意味や言うてるやろ」
「差さんと来たん?」
「せや。濡れてもええカッコして来たし」
両手を広げて。ニカッと笑う幼馴染は短パンにタンクトップ。全てがぐっしょり濡れてその褐色の肌に張り付いている。
黒髪から、ポタポタと雫が落ちた。
「平次、アホや」
「なんやと?」
「傘さして、無意味なんやったら、アタシなん迎えに来んかったらよかったんや。傘持ってきてもろても、意味ないやん」
「そうでもないで?」
「なんで?」
「そろそろ、風、止んできたし」
「え」
「雨はまだ降ってるけどな。今のうちやったら傘も役に立つわ。ほら、今のうちに、行くで」
「平次……」
「そんかし、途中で風出てきたら諦めや。幾ら俺でも、そこまではわからん」
「そこまで、て」
そもそも。このタイミングで風が凪ぐことなど、分かる方がおかしい。
「平次、ホンマにタイミング合わせて来たん?」
「そうや」
「ホンマのホンマに?何でわかんのそんなこと?」
「そら、俺、探偵やし」
「推理で天気まで分かるか!!偶然なんちゃうん?」
「な、お前、俺の野生の勘疑うんか!?」
「やっぱ推理ちゃうやん」
「勘働きも推理のうちや!!さっさと行くぞ!!ホンマ、風出てきても知らんからな!!」
傘を一本押し付けて。さっさと踵を返すと自分も傘を差してさっさと青になった横断歩道を渡り始める。
慌てて傘を差して、その後を追って。
幼馴染の言葉の通り、さっきの風は何処へやら。ただ、大粒の雨だけが空から落ちてくる。
「平次、傘差すん」
「なんでや」
「今更差しても遅いんちゃう?」
「せやかて、俺が差さんと傘差してるお前と歩いとったら、お前が俺を傘にいれてやらん酷い奴みたいやで」
「そっか」
「ま、これやったらどっちが迎えに来たんかわからんけどな」
「ホンマやね」
濡れ鼠の平次が。傘を差して、和葉の前をずんずんと歩く。
平次の持ってきてくれた男物の大きな傘に、和葉はすっぽりと隠れてしまう。
「晴れたな」
「え?雨、まだまだ降ってるよ?」
「お前や、お前」
「アタシ?」
「ま、ええわ。この貸しは高いでぇ。覚悟しぃや」
「ええ!!あ、アタシ今月お小遣いやばいんやけど」
「ほな、来月の小遣い日に奢ってもらうか」
「酷!!鬼!!」
「なんや?迎えに来たったんにお礼の言葉もなしかい」
「あ、ありがと……」
「ほな、奢るのは当然やろ?」
「そら、奢る、けど。でも、あんま高いのは、無理やって」
「なーに食うかなあ」
「なあ、ちゃんと聞いてる?」
「んー。雨音がうるそうてなあ」
「平次!!」
「和葉、気ぃつけんと水溜りにはまんで」
「は、はまらんもん!!もう!!平次!!誤魔化さんとって!!」
雨は、まだまだガッコのプール並み。
雲は低く暗く。晴れる気配もないけど。
アタシの心だけが、今日も快晴。
矛盾があるのは分かってるんですけど、突っ込まないで下さいプリーズ。<開き直り
豪雨の中、自転車を漕ぎつつ思いついた話です。梅雨も終盤。いやー、すごい雨ですねー。
風が酷くて煽られて、久々に死ぬかと思いましたよ。
しかし一度は裏返って変な風に骨が曲がった傘。一度閉じてもう一度開いたら、
なんかそれなりに曲がったまままだ差せました。折れなかったから良かったんでしょうか。
最近のコンビニ傘は丈夫だなあ。
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