「はあ」
遠山和葉は布団の中で深く深く溜息をついた。
頭がぼんやりしているのは寝起きだからだけではない。重い頭。熱い頬。
明らかに、風邪。
薬を飲んで寝れば治ると高を括っていたが、そうは問屋が卸さなかったとみえる。
「はあ」
もう一つ大きく溜息をついた。
風邪で寝込むのは、生来活発な和葉の本意ではない。じっとしているのは性に合わない。それだけでも憂鬱になるのに。
窓の外では行き交う人の気配。明るく響く挨拶。
「明けましておめでとうございます」「今年も宜しくお願いいたします」「こちらこそ」
そう。
今日は正月元日。
一年の計は元旦にあり、というが。和葉の目標はとりあえず「風邪を引かない」になりそうだ。
何が嬉しくて新年早々布団に臥せってないといけないんだか。
自分でもイライラしてしまう。
大晦日。クラスの友達と、北野天満宮へ初詣へ行った。勿論、幼馴染の平次も一緒に。
深夜に集まって、臨時列車で京都へ。最初遠山家も服部家もいい顔をしなかったが、友人の一人の両親が同行することになり許可が下りた。
あの時は楽しくて。自分の体調の不調にも気づかなくて。
変だな、と思ったのはもう帰りの電車の中だった。
「どないした」
「うーん。疲れた、かも」
「ふうん」
心配をかけるのが嫌で、何も言えず。幼馴染も何も言わず。
それでも皆と別れて数メートル歩いたところで。
徐に手を差し出された。
「……なに?」
「掴まれ。歩くん、しんどいんやろ」
多くを語らない幼馴染はどこか紋切り口調で。いつもなら絶対に二言三言付いてくるだろう憎まれ口もなくて。
そのまま手を引かれて服部家まで戻った。
口数が少ないこと。憎まれ口を叩かないこと。
この二つは、平次の機嫌がよくないことを示している。それくらい、長い付き合いでわかるのだ。
「はあ」
和葉はもう一度溜息をついた。
自分が風邪で臥せっていること。自由に動き回れないこと。それよりもなによりも。
平次の機嫌が悪いことが、今の和葉には大問題だった。
服部家は年始の来客が馬鹿みたいに多い。大晦日はその準備で忙しく、そして今時分にはぼちぼち来客が訪れ始めた頃だろう。
元々正月に来客の多い家だったが、平蔵が府警本部長に就任してから更に増えた。
主は正月の殆どを府警本部で過ごすというのにひっきりなしに来る客の対応で、毎年服部家の正月は忙しい。
静華が台所に立つ時間も制限されてしまう為、親戚が手伝いに来る。毎年和葉も手伝いがてら正月を服部家で過ごす。どうせ父も仕事なのだ。
それが。
明け方に服部家に戻る頃には自分の高熱を自覚しないわけにも行かず。
玄関を上がる前に、静華に止められた。
「平次。和葉ちゃんおうちに送って来。うちはこれから忙しくなるし。和葉ちゃんゆっくり寝られへんやろ」
……風邪引きなどに居られては、迷惑だったに違いない。
そう思うとわかってはいても目の前が真っ暗になる思いで。事実眩暈を起こして。
気づいたら、幼馴染の背中に居た。
「……へい、じ?」
「黙っとけ。舌噛むぞ」
それっきり幼馴染は黙ったまま歩を緩めず。
迷惑だったのだ。怒っているのだ。なんで正月早々自分がこんな目に会わなければならないのかと。不機嫌なんだ。
そう思うともう、涙が止まらなくて。
「アタシ、降りる。降ろして」
「アホ。背負った方が楽なんじゃ」
そう言われたら、もう何も言えなくて。
あとはずっと謝っていた気がする。何も言わない平次の背中に向かって。ずっと。ずっと。
結局自室のベッドまで送られて、言われるままにパジャマの入っている箪笥の引き出しを指示して、そこには下着も一緒に入ってるから自分で出すなんて口を挟む間も与えられなくて。
風邪薬と水を和葉の枕元に置いて、寝間着には自分で着替えろと言い置いて平次は服部家に戻ってしまった。
泣きながら着替えて、泣きながら薬を飲んで、泣きながら寝た。
なんで、正月早々。こんな目にあってるのだろうと。
なんで風邪なんて引いてしまったのだろうと。何度も何度も繰り返して。
そのまま寝てしまって。
さっき、起きた。
***
起きたら、意外にも部屋に平次が居た。
しかも七輪を持ち込んでいる。焼けた餅が弾けて、ふんわりとお米の香りがした。
「平次」
「ん」
「いつ、来たん?」
「さっきな。家の手伝い、一通り終わったし」
「せやけど」
時計を見ると、まだ昼前。確かに来客準備は終わったかもしれないが。来客自体のピークはこれからだろう。
「熱、どうや」
「う……まだ」
「飯、食うか」
「まだいらん……」
「そか」
幼馴染の機嫌は戻っていない。寧ろ、悪化しているようにしか見えない。
そうだろう、とは思う。
何が嬉しくて、正月早々幼馴染の面倒を見なければならないのかと。どうせ静華に言われてしぶしぶ来たのだろう。
さっきから七輪の上の餅ばかり見て、和葉の方を見ようとしない。
「はあ」
もう一度、溜息。
わかってる。わかってるのだ。
来客の多い賑やかな服部家の正月。
親戚や警察関係者を始め、まさに千客万来。客たちの人種は千差万別だ。
人懐こい性格の平次は、正月を楽しみにしているらしい。普段は中々会えない人たちに会える。様々な人種。様々な職種。
大人たちは一様に平次に声をかけ、寧ろ機嫌を取っているようにさえ見える人も居た。
それは決して気持ちのよいことではなかったけれど。
それでも平次にしてみれば、普段得られない貴重な情報を得る二つとない機会には違いない。
自分の知らない世界のことを、大きな瞳を更に大きく輝かせて聞く幼馴染は。平蔵や遠山父と事件の話をしたり剣道の稽古をしたりする時の、次くらい、かっこいいのだ。
和葉だってそんな平次が見られるのは嬉しかった。
……ついでのように自分に降ってくる心の篭らないお世辞の数々にはうんざりだったし、何も知らないくせに平次の残した結果だけを賛美する大人たちに時に腹を立てることもあったけど。
でもそれを差し引いても。
こんな機会は早々あるものではない。
それを。
自分のためにふいにしてしまっているのだ。
幼馴染の機嫌がよくなるはずもない。
「平次」
「なんや。餅なん風邪引いてるやつにはやらんからな」
「お餅は、ええんやけど」
「ほな黙って寝とけ」
そう言いつつ七輪の上で気持ちいいくらいぷっくりと膨れた餅を手元の醤油皿に取る幼馴染は和葉の方を振り返りもしない。
取り付く島がないとは、このことだ。
そもそも。
なんでこの部屋に七輪を持ち込んでるのだろう。
七輪は小さなやつで、キャンプにも持っていけるアウトドア用だ。主に服部家の縁側で活躍する。
持って歩くには少し重い。おそらく自転車で来たのだろう。平次にとって正月に餅が外せないアイテムで、餅と言えば七輪しか選択肢がなかったのかもしれないが。
それにしたって。
自分のことを心配した静華が平次をこっちに寄越した。のは、なんとなく予想がつく。
しかしだからといって。
この部屋に居る必要はないはずだ。
しかも、わざわざ七輪まで持ち込んで。
七輪を二階に持って上がるのだって面倒には違いない。ここにはテレビもないし、それこそ七輪の餅くらいしか平次の暇を紛らわすものはないのだ。
それくらいなら。
一階のソファで年末に借りてきたDVDを観てる方が余程有意義というものだろう。
「平次」
「なんや」
「下に、あれあるよ」
「あれ?」
「平次が見たがってた映画。お父ちゃんが年末に借りてきてくれたん」
「せやけど、それを俺が又借りすんのはあかんやろ」
「又借り、やなくて」
漸く幼馴染が餅から視線を上げる。
「今、観て来てええよ」
「アホ」
即答。
「そんなん、俺がここに居る意味ないやん」
「……そう、かな」
「そうや。お前はさっさと寝て風邪治せ」
「う、うん……」
機嫌は。少しもよくならなかった。
どころか、寧ろ悪化させてしまった気がする。
失敗。
ここに居てくれるなら居てくれるで。……一人きりはやっぱり心細いので、居てくれるのはホントに嬉しいのだが。
居てくれるで、もう少し何か。話してくれるとか。
こんなに不機嫌な様子を見せられても、和葉としては哀しくなる一方である。
じっと幼馴染に視線を送る。
再び餅を見つめる平次はもう視線を上げない。
一分一秒が重く圧し掛かる。
カチ、コチ、と。時を刻む秒針が妙にゆっくり感じられた。
幼馴染は微動だにしない。
「平次……ごめん」
***
「は?」
漸く絞り出した声に。幼馴染の返事は頓狂な声で返す。
「平次、ホンマ、ごめん」
「なんで和葉が謝んねん」
「せやかて、怒ってる」
「アホ。怒ってへん」
「嘘や。怒ってる」
「勝手に人んこと嘘つきにすんな。嘘なんついてへん」
「嘘や。絶対、怒ってるもん。わかるもん。アタシ、が」
息が切れるのは。熱のせいなのか。涙をこらえているせいなのか。
「アタシが、風邪なん、引いたから。お正月やのに、お客さんにも会えへん、くて」
「アホ。うちの客なん明日も明後日も来るわ」
「向こうにおったら、色々もらったり、できるかもしれへんのに」
「アホ。要らん人からお年玉もろたりしたらおとんに殺されるわ」
「色んな話も、聞けるのに」
「そんなん、別にどおでもええ」
「こっちおっても、暇やのに。アタシが、風邪、なん、引いたから」
「別にそんなん、怒ってへんわ」
「嘘や。絶対、怒って」
「……怒ってるとしたら……そうやな」
再び、視線を落とす。
「……別に、和葉に怒ってるわけ、ちゃう」
「え」
「もうええ。俺のことなん気にすんな。寝ろ」
「う、うん」
七輪の上の餅が、ぷっくりと膨れて。
どんどん、膨れて。
それでも平次は動かない。
限界まで膨れた餅が。プシュッと気のない音を立てて元の形に戻っていく。
それでも平次は動かない。
「アタシ、やのうて?」
「ええからもう寝ろ。寝ぇへんと、今度はホンマに怒んで」
「う、うん」
その横顔は、もう反論を許さない。それくらい、長い付き合いで知っている。
和葉は、仕方なく目を閉じた。
***
「平ちゃん、あんな」
「なんや、おっちゃん」
「和葉のことやねんけど」
「和葉?」
「せや。明日の大晦日、北野天満宮行くって」
「ああ、それやったら村瀬のおっちゃんとおばちゃんが一緒やから、大丈夫やで。俺らだけで行くんちゃうし」
「それは聞いてるんや。それやからワシも和葉に行ってええ、言うたんやけどな」
「ほんなら、和葉がどないしたん?」
「……あいつ、ちょう、風邪気味っぽいんや」
「え」
「せやけどなあ。随分楽しみにしとるようやし、今更行くな言うんもあれやからなあ。せやから平ちゃん」
「なんや、おっちゃん」
「和葉が無理せぇへんよう、見といたってくれへんか。悪いんやけど、風邪酷なりそうやったら、早めに帰ってくるとか……」
「わかった、おっちゃん。気ぃつけとくわ」
「すまんな、平ちゃん。ここで無理して、正月寝て過ごすことになったら、和葉もつまらんやろしな」
「うん。わかった、おっちゃん。任せといて」
ごめん。
ごめん、おっちゃん。
約束守れなくて、ごめん。おっちゃん。
俺が、しっかりしてへんかったから。
***
途中で一度起きて。ぼんやりした頭のままお粥を食べて薬を飲んで。
もう一度寝た。
のだと思う。
多分、夢ではなかった。
その証拠に。ベッドの近くの机の上に水が少しだけ入ったグラスと、風邪薬の殻がある。
お粥の入っていた器とスプーンはないけど、上にのっけてくれた梅干の入った小さな壷がグラスの隣に置きっ放しになっている。
だとしたら、あれも夢ではなかったのだろうか。
お粥を食べて。器を平次に渡して。
もう一度「ごめんね」と謝ったら、また怒ったように「お前が謝んな」と返された。
それから。
小さな声で。
「スマン」
と。平次の方が謝った気が、した。ホントに、小さな声だったけど。
それから。
「早よ治れ」
そう言って。
アタシの手を握り締めてくれた。気がする。
多分、夢じゃない。多分。
***
もう一度起きた時には熱もすっかり下がって。幼馴染の機嫌もすっかりよくなっていた。
「もう一度お粥食うか?」
「ううん。お粥はもうええ。アタシもお餅食べたい……」
「そう言うやろと思ったわ」
袋の中から丸餅を三つ取り出して。七輪の上にのせるその表情は、すっかり明るくて。
ふと。和葉はベッドの横の机の上を見る。
グラスと、薬の殻。梅干の壷がなくなっていて、代わりに。
「これ、おとうちゃんの」
「おう」
「おとうちゃん、帰って来たん?」
「ちょっとだけな。せやけど、また府警行かなあかんって、もう行った」
「ええー。起こしてくれたらよかったんにぃ」
「おっちゃんが、起こしたらあかん言うて。和葉の熱も下がってよかった言うて、行ってもうた」
「そっかー」
机の上には、父の手によるぽち袋。
「平次も貰ったん?お年玉」
「ん、俺はあかんかった」
「あかんかったって!?なんで!?」
「ま、しゃーないわ。ええねん、そんなん」
「ええって……なんで平次、そんなに機嫌ええの?」
「ま、なんでもええやん。餅、醤油でええか?」
「ええ、けど」
「お、そろそろ焼けんで」
お年玉を貰えなかったのに。この極上の笑みはどうしたことだか。
……なにがあったんやろ……。
ま、いいか。
とりあえず幼馴染の機嫌がよければ。
二人静かな正月も、それはそれでいい気がしてしまう。
怪我の功名、風邪のなんとやら。
今年も、いい年でありますように。
新年早々和葉泣かせてどうするよ>自分
書きたいところだけ書いたのでちょっと意味不明……かもしれません……。
体調不良の愛娘を、それでも大丈夫かな〜と思いながら送り出したところ案の定風邪を引いて帰ってきて、
やっぱり無理にでも止めるべきだったかと己の甘さを反省してたところ、自分の何気ない言葉に思った以上に責任を感じていた少年に、
遠山父がどんなお年玉を上げたのかは、皆様のご想像にお任せします。
いえ、流石に遠山父もこの状況で和葉の風邪の責任を平次に取らせようとは思わない……と思いますよ。
平次は平次なりに責任を感じながら餅をつついてたんだと思います<何故餅
あ、あと!!頑張ってちょっとラブくしてみたんですけど!!どうでしょうか!!どうでしょうか!!……足りませんか切腹。つか寧ろ浮いてますかも一度切腹。
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