売られた喧嘩は、勝算がある時だけ買え。
というのが父平蔵の教えであったが、それを守るには服部平次は些か若すぎた。
直情径行の傾向のあるこの若者は、時に……寧ろしばしば……無茶をする。
尤も、それが彼の悪いところでもあり、いいところでもあった。ので、平蔵も静華も現在のところ放置の方向。
しかし。もしかしたらこの世で一番彼の身を案じているかもしれないその幼馴染にとっては大問題である。
数日前、服部平次は大阪府下で起きた傷害事件に巻き込まれた。無論、自ら。
不幸な偶然から一人で犯人と対峙して。
売られた喧嘩を買ってしまった。
「お前、剣道強いんやってなあ」
「それが、なんやねん」
「せやけど、竹刀がないとなんもでけへんのとちゃうんか?」
その場に誰かが居合わせたなら、その瞬間何かが切れる音を聞くことができたかもしれない。
勝負は、すぐについた。西の高校生探偵の圧勝。
が。
犯人が防弾チョッキ代わりなのか服の中に仕込んでいた鉄板をしこたま殴る羽目になった平次は。
右手の指を数箇所、剥離骨折してしまったのであった。
***
「平次、どないしたん?」
部屋に入ってきた幼馴染が入り口で呆然と立ち尽くしているのに、和葉は炬燵の中から声をかけた。
平次が剥離骨折をして一週間。幸い剥離した骨片は小さく、暫く指を固定しておけば消滅するので手術の必要もなかった。
というわけで、平次の右手は現在ミトン状態である。実は人差し指と薬指以外は無事なのだが、一本一本添え木して包帯を巻くのも面倒臭く。4本揃えてグルグル巻きにしている。
しかし今、平次が呆然と眺めているのは無事なはずの左手であった。
「手、どないしたん?痛いん?」
「ああ、いや。ちゃうねんけどな」
そう言いながら。ミトン状態の右手で左手に少し触れると「痛て!」と小さく声を上げた。
「痛いんやん。なに?右手?添え木ずれた?もっかい巻こうか?」
「ちゃうちゃう。こっちは平気や」
「そんならが左手?アホやなー。そっちも怪我したら詮方ないわ」
「いや、怪我っちう程のもんとちゃうねんけどな」
「せやからなんなん」
心配して立ち上がる和葉の目の前に平次は左手の甲をずいっと突きつけた。
「何?」
「爪」
「爪?」
「爪が割れてもうたんや。どっかにひっかけたんかなぁ。結構痛いんや」
「あ、ホンマや」
割れるはずである。
いつの間にやら平次の爪はすっかり伸びてしまっていた。
「ちゃんと爪、切らへんからやん」
「せやかてどないせぇっちうねん。こっち使えへんのに、こっちの爪なん切れるか」
「あ、そっか。平次、自分で切れへんのや」
ぐるぐる巻きの右手で。左手の爪など切れるわけはない。器用な彼はそれでも左手で足の爪は切っていたのだが。
「しゃあないなあ、アタシが切ったげるよ」
「んー、別にこんくらいの長さならええねんけど。せやけど、この割れたんだけはどうにかしてもらえると嬉しいわ」
「どっかひっかけてもっと酷なったら大変やもんね」
「あれなー。深爪とか、あれ結構痛いんよなー」
「アタシ向こうから爪切り取って来るから。大人しく待っときぃや」
即座に立ち上がって、部屋を出て行く。この自称平次のお姉さんは、平次が片手を怪我してからその世話をするのが嬉しくて仕方ないらしい。
無茶をするなと散々苦言する割りに、妙に楽しげでもある。
平次は黙って座ると、手持ち無沙汰なのでTVをつけた。
程なくして階段を上がる軽い足音がして幼馴染が部屋に入ってくる。
「はい。割れた爪、見せて」
「お、悪いな」
姿勢を正すとその前に和葉が座り込んで、差し出された平次の左手を取った。
「うわー。盛大に割れたんやね」
「後で痛ならんように切ってくれや」
「当たり前やん。任せといて。ちゃぁんと他の指も切ってあげるから……って、ええと……」
見る見るその眉間に皺が寄る。
「どないしてん」
「……しずらい」
「はあ?」
「こっち側からやとやりずらいんよ。この、微妙な、カーブが……」
和葉が持って来たのは何処にでも売っている極普通の爪切り。くるっと回してパチンパチンと切る、あれだ。家庭用なので少し大きめ。
遠山家の爪切りだって大差ない。
使い慣れたもの。なのだが。
「こう、かな」
「アホ。なんや危なっかしいなぁ。深爪とかすんなや」
「せやかてホンマにやりずらいんよ」
「何言うてんのや。たかが爪切りやん」
「ホンなら平次がやってみぃや」
「何で俺やねん」
言いつつ、差し出された爪切りを受け取り器用に左手で操って同様に差し出された和葉の手の爪にあてがう。
「あーー、気ぃつかへんかったわぁ」
左手と右手の違いも少しはあるだろうが、和葉の言わんとすることはわかった。
普段、何気に刃を横に向けて使っているその爪切りを、正面から差し出された手に対して縦にあてがうと微妙な違和感を醸し出す。
力の入れ方までもが微妙にわからなくなる。脳みそが混乱しているのかもしれない。
「ほな、諦めるか」
「そういうわけにもいかへんやん。それ以上酷なったら痛いんは平次やで?」
「せやけど変な切り方されてもかなわんし」
「せや。こっちからやるからあかんねん」
ずるずると膝で平次の左に移動してくる。
「横からやるんやったらこっちちゃうんか?」
「アホ。それやったら平次、手首ぐいってやらなあかんやん。こっちから、こう……」
言いながら平次の左の脇の間に右手を差込み。腕をクロスさせるようにして、右手に持った爪切りを平次の左手にあてがった。
「これでええやん」
「ええんか」
「うん。やり易い」
「ホンマにええんか?」
「ええよ?なんで?」
そのまま左手で平次の左手を固定させると、パチンパチンと切り始める。
確かに、やり易いかもしれないが。
和葉さん、和葉さん。
胸、当たってるんやけど。俺の肘に。
そんなことは一つも気に留めていないらしい。一心不乱に幼馴染は爪を切る。
ポールポジションを取った以上、たかだか5本の指の爪を切るのには大して時間はかからなかった。
左手が開放されると同時に平次の緊張も一気に解け。そのまま深いため息とともに肩を落とす。
「ほら、綺麗に切れたやろ!!……って、平次、どないしたん」
「別に……なんもないわ」
「え、深爪とかした?綺麗に切れた思ったんに」
「あー、綺麗やでー」
「ほな、なんなんよ。どっか痛いん?」
「肘が……ちょっと……」
「肘?」
「いや、なんもないわ」
平次はもう一度大きくため息をついて、包帯の巻かれた右手を見る。
さて。
この包帯が取れるまでに、左手の爪はどれくらい伸びるのだろう。
またこうやって。幼馴染に切って貰う日が来るのだろうか。
来て欲しいような、欲しくないような。
「どないしたん?平次。傷、痛むん?」
「いや、平気や。おおきにな、爪」
「ええよ、そんくらい」
小首を傾げて。至極嬉しそうにこの幼馴染は笑う。
「アタシは平次のお姉さん役やもん。怪我した平次の面倒見るんは、アタシの役目やし」
「さよか」
TVからは。初雪の報が流れていた。
うちでは珍しく(?)スキンシップ平和。わーーい、ラブラブだ!!ラブラブだ!!ラブラブですよ!!……うわーんスミマセン。
なんつか、極々日常の中に流れる仄かなラブ……うう。仄か過ぎですか。風前の灯火ですかほんのりラブ。
ほんのり過ぎて見落とされそうですが……なんつか、その、チラリズム的ラブというか……うう。すみません。もう黙ります。
と言うわけで、人様の爪を切るのは実は結構大変だと思うのですが、どないですかね?私が不器用なだけですか??
でも実は二人の体格差だと平次の肘はジャストフィットじゃないかもです。まあ、あまり気にしないで下さい。
魔術師殺人事件のぎゅっほどの密着はないかもしれませんが、気にしないで下さいプリーズ。
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