2月某日。玄関で連打されるインタフォンの音に、遠山和葉は溜息混じりに炬燵を這い出た。
和葉の動きに炬燵の上のみかんの山が崩れたが、籠からは落ちなかったのでそのままにして玄関に出る。
遠山家には、今は和葉一人。そして来訪者は。
「おはよーさん、和葉。寝とったんか?」
「寝てなんおらんもん」
「せやったら、なんで出てくんの遅かってん。俺、もう裕に10分はここで呼び鈴押しててんで?凍ってまうわ」
「嘘言いなや。最初に押してから1分も経ってへんやん。音したん、5回だけやもん。それに」
外は穏やかな陽気で。凍るはずがない。
「なんや。ちゃんと数えてるんやん。ま、なんでもええわ。それより和葉」
「ちゃあんと、準備万端やで?」
溜息混じりに返す。気の進まない様子を前面に出しているつもりなのだが、幼馴染は一向に気付く気配がない。
……ホンマに。
なんでこう、オンナゴコロというものが分からないのだろうか。この幼馴染は。
去年、山ほどもらったチョコを和葉に自慢したことは目を瞑るとして。その中のいくつか、もしかしたら殆どは本命だったかもしれないというのに平次自身は義理チョコだと信じていたみたいだし。
自分だって、結局本命とは言えずに義理とも本命ともつかない渡し方をしたのだから、平次が和葉に気を使わないことを責める権利はないかもしれない。
それにしたって。
上機嫌で靴を脱いで服部平次は遠山家に入る。「お邪魔します〜」と誰もいない空間に向かって律儀に挨拶をした。応える声はない。構わず平次は勝手知ったる他人の家の廊下を行く。
小春日和の休日に、この幼馴染が遠山家に来たのには無論理由がある。間違っても昼寝をするためではない。
「うわ。なんや、もう甘ったるい匂いしてんで。こんなんでよう吐き気とかせぇへんなぁ」
「……文句言うんやったら作るんやめたらええやん。作ってる時はもっと匂いするよ」
「なんや、和葉。機嫌悪いなあ」
いつもより低い和葉の声に、漸く平次が振り返る。諦めて溜息を一つついて。幼馴染の脇を擦り抜けると和葉は先に台所に入るとコンロの鍋に火をいれた。
「別に。機嫌なん悪ないもん。平次のはそっち。こっちはアタシのやから」
「なんや、お前、どんだけチョコ作んねん。今年もあれか?義理チョコ」
「なんでもええやん。取りあえず、そのチョコ全部細かく砕いて」
「へぇへぇ」
なんとこの幼馴染は、今日、チョコを作りに来たのである。
別にバレンタインに手作りチョコを贈りたい殿方が居るわけではないらしい。あまりの申し出に訝しんで聞いてみたところ、盛大に笑い飛ばされてしまった。
かといって、バレンタインに男の平次が女の子にチョコを上げるとも思えない。
それはホンの数日前の学校からの帰り道。
「この前、TVで偶然見たんやけど。あれやな、トリュフって結構作るん簡単やねんな」
「まあ……別にめっちゃ難しいわけちゃうけど、そんな簡単ちゃうで?トリュフ」
「せやかてあれやろ?チョコ溶かして生クリームとか入れて、ボール状のチョコん中絞りだして、そんで周りにチョコつけて冷やしたら終いやん」
「ボール状のチョコってなに?」
「なんや、違うんか?」
どうやら、中に生チョコを絞りだせばOKというお手軽トリュフ用球状チョコというものが市販されているらしい。
「普通はそんなん使わんと、中のチョコ丸めたら冷やして、そんで周りにチョコつけるん。……なんて言うんかな、クリームコロッケみたいなん」
「へー。結構めんどいんやな」
「せやから、簡単言うほど簡単ちゃうって言うたやん?アタシ、そんなん売ってるなん知らんかったわ」
「ふうん」
腕を組んで平次は、頻りに感心したように何度も頷く。
「和葉、今年もチョコ作るんか?」
「……作る、けど」
「義理チョコ、またぎょうさん配るんか?」
「ええやん。そんなんアタシの勝手やもん」
「ま、ええけどな。ほな」
俺も一緒に作ってええか?
……ホントに、デリカシーのカケラもないと思う。
チョコだろうとなんだろうと。人に贈るものの作成過程など見られて嬉しいわけがない。ましてやそれが、贈る相手で大本命なのだから余計だ。
和葉が手作りチョコに挑戦したのは去年が初めて。しかも平次用だけ、と挑戦したトリュフはなかなかよい形にならずに悪戦苦闘した結果、多分、成功分の三倍は無駄にした。
それをいきなり一緒に作ろうなどと言われても、喜んでOKできるわけがない。
が、結局上手い断りの理由も見つからないままに押しきられた。
おかげで和葉がトリュフを作るのはこの2週間で3度目である。……こっそり、練習までした。きっと父は今頃チョコなど見たくないに違いない。
なんとか要領を得てきたので幼馴染の前で大失敗をすることはない、とは思っているけれど。
それでもやっぱり。
……なんでこういう、オンナゴコロをわかってくれへんのやろ。このオトコは。
湯煎で溶かれるチョコに溜息が一つ吸いこまれる。褐色のチョコは鍋の中で滑らかな曲線を描いた。
「和葉センセー」
「はいはい」
「こっちもエエ感じや。ブランデー入れたら、次どうすんねん」
「ボウルの底に氷水あてて冷やして。ちゃんと混ぜながら、均等に冷やすんよ」
「よっしゃ、任せとき」
威勢のいい返事に。和葉はもう一つ溜息をついた。
***
バレンタインにチョコを贈るのは日本にだけある習慣(?)で。どこをどう考えても菓子屋の陰謀としか思えない。
そう思いつつもそれを一度も口に出したことがないのはそれでも和葉が毎年くれるチョコに悪い気がしなかったからだ。
殆どクリスマスプレゼントか誕生日プレゼントか。はてまた年賀状かというノリでずっと幼い頃から貰っていたチョコ。
それが本命とか義理とか言うには程遠いものであったとしても。
同年代に限ればその恩恵に預かれるのは自分だけだったというに。
クラスの女子の一人が義理チョコを準備すると言いだしたらそれはあっという間にクラス中に蔓延して。なんだかんだで和葉が用意するチョコの数が倍増どころか三倍増くらいしたのは去年のこと。
しかもご丁寧に全部手作りだった。
クラスの中でも和葉と割と親しい数人の男子がもらった義理チョコは自分宛ての義理チョコよりも小さく見えたが、多分、それは自分の都合のよい目の錯覚ではないとは思うのだが。
奴らとは自分も仲がいいし、いいやつらだし、別に、いいのだが。いいはずなのだが。
そもそも自分だってクラスの女子から随分と義理チョコを貰った。和葉のことをどうこう言える立場ではないのだが。
……それでもやっぱり、面白くなくて。
それならせめて今年は。
そう思ったオトコのつまんない意地を。この幼馴染が理解することはきっと一生ないだろう。
***
割と手先が器用な平次の手作りチョコ初挑戦は、それでも悪戦苦闘のうちに終わった。
もうチョコは見たくないと言わんばかりに、平次が流しでボウルや泡立て器をがしゃがしゃと洗っている。
数日後にはまた山のようにチョコをもらうだろうに。どうするつもりなのだろうと横目でその表情を伺い、和葉は小さく一つ溜息をついた。
もうチョコなん、見たないわ。そう言い出しそうで、不安になる。和葉のチョコまで受け取ってもらえなくなったら切ないを通り越して空しい。
「和葉、洗いモンこれで全部か?」
「あ、うん。あと、鍋」
「おう」
使った計りを布巾で丁寧に拭いて元の場所に片付ける。使ったラップはワゴンへ、製菓用ブランデーは棚の中へ、余った生クリームは冷蔵庫へ。
「どや。もう出来たんか?」
生クリームを入れる場所を探していると頭の上から声が降って来る。つい最近まで同じくらいだと思っていた幼馴染の背はいつの間にか自分より大きくなっていた。
「平次のは、さっき入れたばっかやもん。まだ固まってないんちゃう?」
「ほな、和葉のは?」
「アタシのは、先に作ったトリュフなら」
今年も。平次の分だけ手の込んだトリュフ。他の義理チョコは一度溶かしたものを銀紙の容器に流しただけ。アーモンドとかレーズンとか入れたりしたけど、でもきっとこんな些細な差には幼馴染は気付かないだろうし、気付いたとしても特に意味を見出さないに違いない。
「ふーん、これか。一個、もらってもええか?」
「ええ、けど」
頭の上から延びて来た手がバットの上のチョコを一つ摘んで躊躇いなく口に放りこむ。
練習の成果か今日のトリュフは市販と言ってもいいくらいに綺麗に出来たのだが。そんなことはこの幼馴染には関係ない。
「ん。美味!!」
「平次、チョコなん暫く見たくないんとちゃうかったん?」
「せやけど美味いで、和葉のチョコ。も一個ええか」
「ええけど。当日平次が貰う分がへるだけやもん」
「代わりに俺のんは全部お前にやるわ」
「ええー!!なんのために作ったんよ」
「別に、作りたかっただけやから。俺が心込めて作ったったんや。ありがたく食えや」
「いやや、気色悪い。平次の心なん、推理とか剣道とか殺人事件で一杯やん」
「気色悪い言うなや。一応食えるはずやで?先生がよかったからな」
「当たり前やん。誰に向かって言ってんの」
***
だったらせめて。フライングでもいい。今年のチョコを一番に貰うのは自分でありたい。
一日でも、一時間でも、一分でも、一秒でも。一瞬でも早く。
そんな、ホントにホントに小さなオトコの意地に。きっと。幼馴染が気付くことはないだろう。
と言うわけでバレンタイン過ぎてからバレンタイン前の平和です。とほほ……。
クラスの男子に義理チョコを配る、なんてことを始めたのは確か小学校の高学年だったと記憶してます。最近のお子様はもう少し早かったりします?
一人が「どうする?私はねえ……」って言い出すと、皆「私も」「私も」状態になって、結局自分も用意した気がします。
でもこの場合の義理チョコの意味は、本命チョコのカモフラージュだったりするんですよねー。
大本命にチョコを渡す口実と言うか、本命と言えないから他にも配って誤魔化す、みたいな。
で、元々あげてる平和の場合は逆パターンになるかな、と。
平次がチョコ欲しがるなんて似合いませんか?
そういや、5年生で義理チョコがクラス中に氾濫して6年生では学校にチョコ持ってくるのが禁止になりました……。
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