カツン。
小さな硬質の音を立てて、その黒球がアスファルトに、落ちた。
「あ」
和葉が小さな声を漏らす。視線をゆっくり落として。
「あれ?」
その場にいた全員の視線が黒球に集中する。冬の日にしては暖かい風がそっと和葉の後れ毛をなぜた。
「和葉ねえちゃん……負けてもうた……」
一人がポツリと呟いた。
***
正月の服部邸前の路上。親戚筋の子供たちが年始の挨拶に現れ、やがて静華が出してきた羽子板に興味を持ちだしてほどなく羽根つきが始まった。先に参戦したのは羽織袴姿の服部平次。子供たちの子供たちなりの子供たちによるルールの下で平次のその褐色の肌が子供たちに負けないくらい墨で書かれた○や×でいい具合に埋まる頃、見てるだけでは退屈してきた和葉が参戦したいと言いだした。
「やめとけや。お前、振袖やん」
「大丈夫やもん。ちょっとだけ」
対戦相手は平次。動きを制約する振袖のハンディを埋めるため、平次の邪魔を子供たちがすることになった。
チョロチョロと走りまわる子供たちを避けつつ押さえつけつつ、器用に和葉に羽根を返す。
もっとも、和葉が打ち返せなくても「今のは平次にいちゃんが悪い」という基準のよくわからないルールで平次の顔の×が増えるだけでもあった。
今更墨の一つや二つ一緒だったし綺麗に着物を着込んだ和葉の顔に墨で○でも書こう日には母に何を言われるか知れたものではない。平次としても別に和葉を負かすつもりもなかったのだが。
なんでもない羽根を和葉が打ち返しそこなった。何かに足を取られたわけでもなく。不測の出来事。
その場にいた誰もが、その動きを止めて落ちた羽根に視線を集める。風までが凪いだ一瞬の沈黙。
「まあ、今のは俺が悪かったわ」
と、適当に笑ってごまかそうとするその前に。子供たちが呟いた。
「和葉ねえちゃん……負けてもうた……」
「ホンマや……。負けてもうた」
「今のは、あかんやんなあ」
「うん。和葉ねえちゃんの負けや」
子供なりの基準でしかなくても、そこはそれ、子供たちは正直で。自分達基準による負けは、あくまでも負け。
「ほな、和葉ねえちゃんも罰ゲームや!!」
わあ、っと歓声にも似た声が上がる。
困ったように笑って、小さく溜息をついた和葉は羽根を拾う。それを平次の掌に乗せると拘りなく笑って。
「アタシの負けやね、平次。ほな、罰ゲーム」
「やめとけ、アホ。着物汚すぞ」
「平次が墨垂らさんかったら大丈夫やん?すぐ洗ってくるし」
「すぐ洗うんやったら書かんでも一緒やろ」
「でも、負けは負けやもん。皆負けたら罰ゲームやのに、アタシだけせぇへんなん、ずるいわ」
「せやけどなあ」
罰ゲーム罰ゲームと囃子立てる子供たちの声には邪気がない。
「はい、平次にいちゃん」
渡された筆を反射的に受け取ったものの。
白いその頬を墨で汚すのは躊躇われた。
……せやけど、ガキの頃はようけ羽根つきしたんやけどなあ。
当時は何も気にせず互いの顔を真っ黒にしていたものだが。墨を落とすのが酷くためらわれるのは相当のブランクのせいだろうか。
「平次、遠慮なく行ってええで。アタシもう、覚悟できてるもん」
覚悟なんするほどのもんか、という突っ込みも、柄にもなく喉の奥に引っかかって出てこない。
寧ろ覚悟が必要なのはこっちの方だ。
「ホンマに、ええんか」
「ええよ。はい」
そう言う和葉は。軽く後ろで手を組んで。心持ち顔を上にあげて軽く目を閉じる。
……って、キスでもせぇっちうんかい!!
筆を持つ右手が小刻みに震える。
……落ちつけ。何考えてんのや俺!!たかが羽根つきの罰ゲームやん!!
「平次にいちゃん早くーー」
「○書くん?×書くん?」
「あ、はぁとマーク書いたらーー?」
「わーー。平次にいちゃんと和葉ねえちゃん、ラブラブやー」
「あ、アホ!!まだなんも書いてへんやろ!!」
「そ、そうや!!何言うてんのもう!!」
「ラブラブやー、ラブラブやー」
囃子立てる子供たちに軽く拳骨をくれてやる。
「アホか。誰がハートなん書くか」
「せやせや。平次がそんなん書くわけないやん」
「そんなら何書くん?平次にいちゃん、早くー」
「せやせや。早う次やろうや」
「うっさいわ。ちょう待て」
再び筆を墨に浸して。平次は和葉に向き直る。
小さく肯いた和葉は、またさっきの姿勢。
……せやから!!キスするんとちゃうんやぞ!!
そんなんすんなや!!こっちが困るやろが。デリカシィないやっちゃなあ。
……あ、こいつ案外マツゲ長いでやんの。
って、んなこと言うてる場合ちゃうで俺!!
とりあえず、あれや。×でも○でもええから、なんか書いてまえば終いや。
どっちが書かれてましやろ。×は新年早々縁起でもないか。せやけど○より書くん楽やしなあ。いがんだ○書かれるよりましか。
って、振袖やのにそんなんどっち書かれてもカッコ悪いに違いないしなあ。
せやけど罰ゲームやし、カッコ悪いんは今更か。
ああもう!!どうしたらええねん!!
筆先は和葉の頬まで2センチの距離で止まったまま。
「平次にいちゃん早くー」
「早よしてぇな。男やろー」
子供たちの邪気のない声を恨みがましく思いつつ。筆をもう1センチ近づける。
「平次、早よしてぇな。アタシ疲れてきたわ」
瞳を伏せたまま、和葉が心持ち下げた顎をまた上げた。
……せやからなんでその姿勢やねん!!
キスしろと言わんばかりに見えるのは自分の思考が邪なだけなのだろうか?
……しっかり目ぇ瞑りおって……ホンマに俺がキスしたらどないするつもりやねん。こいつ。
こんな時。幼馴染のこの溢れんばかりの信頼が少し恨めしくなる。
引きつけられるように僅かに傾いだ上半身を、子供たちの好機の視線になんとか自制した。
正月早々。自宅前の路上。目撃者は山のよう。しかも口止めの効く相手ではない。買収した所で効果の程などたかが知れている。
大きく一つ息を吸って。平次は覚悟を決めてその白い頬に筆を落とした。
***
「うひゃっ」
瞬間和葉が顔を背けて。小さな×を描くはずの筆は少しもそこから動かないままに和葉の頬に一本の長い直線を描いた。
「アホ。動くなや。長なってもうたやん」
「そ、そんなん言うても」
ついた墨を手で隠したくても、乾いていない今頬に触れば手が汚れる。軽く手で覆うようにして。和葉の眉がみるみる八の字になった。
「くすぐったいんやもん」
「アホか。すぐ済むねんからじっとしとけ」
「いやや。もうええやん」
「ようないわ。×になってへんやろ」
「線のままでええもん」
「それやったら、罰ゲームかなんかわからんやん」
「わからんくてもええもん。それに、線、長なったんとちゃう?」
「なった。せやけど俺のせいとちゃうからな。お前が動いたからや」
「×にしたら、もっと大きくなってまうやん。いやや。線のままでええもん」
「アホ。そういうわけにもいかへんわ。なあ」
思わぬ和葉の反応に。平次の口の端が僅かに上がる。自分達を見守る幼い瞳を振り返った。
「お前らも、そう思うやろ?ちゃんと×にせな、なあ?」
「せやせや。和葉ねえちゃんそのまんまやったら汚れみたいやで」
「ちゃんと×にせなあかんよ」
「僕も×書かれたもん」
「私もー」
「ほれ見ぃ。皆の期待にはちゃんと応えてやらな。なあ?」
不満気な瞳で。それ以上反論しないまでも承服もしない幼馴染にの右手首を。素早く取るとぐっと自分の方へ引き寄せた。
「わ!!何すんの!!」
「黙ってじっとしとけ」
つんのめるように平次との距離を縮めた和葉の頬に。小さく短く、平次は筆を落とす。
「いやや平次。こそばいって」
「動くなや〜。変になっても知らんでぇ?」
「ちょ、平次!!何書いてんの!!×とちゃうやろ、これ!!」
「お前が往生際悪いから。おまけや、おまけ」
「そんなおまけなんいらへんもん!!」
「じっとしとけっちうに。ほれ、できた」
漸くその手首を離すと。
「わ〜。和葉ねえちゃん、海賊さんや」
「ホンマや海賊や」
「かっこええなあ」
子供たちから歓声が上がる。
「……平次、何書いたん」
「そんなん、言わんでもわかるやろ?和葉チャン」
その白い頬に残された傷跡に満足気に肯く。和葉は小さく溜息をついた。
「……別に、ええけど」
「ま、気にしいなや。そんなん洗たらすぐ消えるわ」
「ほな、アタシちょっと顔洗ってくるわ」
……消えなかったら。
傷モノにした責任くらい、俺がとったるから。
本気とも冗談ともつかない音色で。今なら言える、と喉まで出かかった言葉を飲みこんで。くるりと踵を返すその後ろ姿を黙って見送る。
「ほな、平次にいちゃん。今度は俺と勝負や!!」
「あ、ずるい!!私も!!」
「僕が先や!!」
両手にぶら下がった子供たちに。平次は心の中でだけ溜息をついて。
「よっしゃ。ほんならお前らまとめてかかって来いや。そんかし、負けたら傷三本くらいは覚悟せぇや!!」
子供たちの歓声が正月の済んだ空に溶けこんだ。
言ってしまえよ服部平次!!
つか、言わせてしまえよそれくらい!!自分!!
こんな時期になってまでして書きたかった正月ネタがこれですか!!これなのかよ!!……これです切腹。
うんだって。墨で書かれるのって結構くすぐったいんですよ<経験者
最初子供達に個性を持たせたら話長くなる長くなる……収拾のつかない事態に。挫折。
モデルが何処かの豆アニ兄弟と幼馴染の勝気な女の子だったりしたからですかそうですか。
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