君はまだ憶えているだろうか。
まだもっとずっと幼かったあの日。
自分は世界の王様で。頑張れば出来ないことなど無いと信じていたあの日。
***
「服部君、服部君!!」
駅前の雑踏を、自転車で器用に人波を避けつつ徐行運転していた服部平次は、自分を呼ぶ明らかに聞き憶えのある声にペダルを踏む足を止めた。
「服部君、こっちや」
首を回すと雑踏の隅、店と店の間の人込みの合間にぽつんと出来た空間で自分を手招きするクラスメイトの顔が見える。
「なんや。どないしたん」
「服部君。和葉が」
流れる人波の邪魔になりながら軽く頭を下げつつ横切って、平次は道の端に寄った。
見ると、クラスメイトの女子が数名輪になって。その真中でしゃがみ込んでいるのは幼馴染の遠山和葉。
「なにしてんねん」
「和葉が、足捻ってもうて」
うずくまる和葉は顔を下げたまま。両手で右足首を抑えている。
「なんや。痛むんか?」
自転車を端に寄せて停めると、平次も一緒にしゃがみ込んだ。
「捻挫か?筋痛めたか?」
応えない幼馴染の右足首を強引に引き寄せて自分の目の前に引っ張り上げる。
「ひゃっ」
バランスを失った和葉は、友人達の手によって辛うじて転倒せずに踏み留まった。
「ちょ、ちょう、平次!!止めてぇや」
「ちょう腫れてんなあ……」
「ちょっと、服部君!!あかんって!!こんなとこで」
他の女子連中に間に入られて、漸く幼馴染が真っ赤になってスカートの裾を抑えてることに気付く。
「……別に、んなもん見てへんって」
「そういう問題とちゃうやん。こんな街ん中で」
詰め寄られて慌てて手を離す。和葉は相変わらず俯いたまま。
「捻挫やな」
「やっぱ服部君もそう思う?ほら、和葉。捻挫やって」
「ち、違うもん」
俯いたまま首を振る幼馴染のポニーテールが左右に揺れる。
「違う言うても……和葉、もう諦め」
「平気やもん」
「なんや。どないしてん」
平次は立ち上がってぐるりとクラスメイトの顔を見回す。
「なんや、どっか行くところやったんか?……あ、あれか。映画」
「そうそう。和葉、めっちゃ楽しみにしててんけどな」
甘ったるい恋愛映画を観に行こうと誘われて、平次は即答で断った。暫くして和葉が、学校の友達と観に行くことになったとはしゃいでいたことくらい憶えている。
「和葉、足捻って痛いけど平気や、言うてここまで来てんけどな。やっぱドンドン痛なったみたいやねん。服部君が通り掛ってくれて助かったわ」
「どこでこけてん」
「わからへんの。待ち合わせ場所に来た時には、もう痛い、言うてたし」
「アホやなあ」
溜息混じりに吐き出すと和葉がキッと顔を上げた。今にも泣きそうなその顔に思わず半歩後ずさる。
「アタシ、平気やもん。まだ歩けるし」
「嘘こけ。そんなに腫れてるくせに何言うてるんや」
「平気やもん」
すっくと立ちあがって、平次から視線を外す。
「さっきからこれやねんもん。和葉、もっと酷なったら困るやろ?今日は諦めよ」
「せやせや。映画やったらまた別の日にしよ」
「うちらも、今日は行かへんとまた今度にするし。な」
「嫌や。そんなん、申し訳無いもん。アタシ平気やし」
「和葉ぁ。ちょっと、服部君からも言たげてぇな」
「そうそう。和葉、服部君の言うことやったら聞くやろ?」
「平次の言うことなんしらんもん。アタシは、平気やって」
「……お前、けち臭いこと言うてんとちゃうわ」
「け、けち臭いことなん、言うてへんもん」
「服部君、けちってそれはちょっと話が違うんとちゃう?」
「せやせや。別に和葉が映画行きたいんとけちは関係無いと……」
「お前、映画の割引券の期限、気にしてんとちゃうんか?」
「割引券?」
集中する視線に、和葉は更に視線を下げた。
「知ってんで?うちのおかんに貰た映画館の優待券、今日までやろ?5名様ご招待」
「和葉、そんなん気にしてたん?」
「……使わんかったら勿体ないやん。折角、おばちゃんがくれたのに……」
「アホか。おかんは使わんから和葉にやっただけやで。和葉が使わんかっても別になんもあるかい」
「……皆で行けたら、ええな、思てんもん」
「そんなん気にせんでええって。な、和葉」
「せやせや。安なくてもええんやし。皆で行こ」
「ったく」
きゅっと鞄を抱きしめる和葉の手からその鞄を奪い取る。和葉が大事なものをこのお気に入りの鞄の外ポケットにいつも入れることを平次は知っている。
「これやな」
「あ、平次」
慌てて取り返そうとする和葉の手から軽く逃れると、平次はその優待券を隣にいたクラスメイトに押しつけた。
「ほな、これはお前らで今日使え」
「え、でも」
「和葉はこれから俺とユーターンや。お前らだけで映画行ってこいや。これで券は無駄にならへん」
「でも、和葉も映画……」
「和葉は、今度俺が連れてったる。俺が半額奢ったればええのんやろ?」
「そんなん奢っていらんけど……。え、でも、平次。恋愛映画なん吐き気するって……」
「……隣で寝てても怒んなや。ま、これで万事解決や。ほな和葉、後ろ乗れ」
優待券を押しつけられて呆然とするクラスメイト達の視線をものともせずに平次は自転車のストッパを外して荷台を和葉に指し示す。
「え、でも、服部君」
「なんや。お前らも安く行けた方がええやろ?」
「それは、まあ、助かる、けど」
「皆、ごめんな」
困惑気味に顔を観合わせるクラスメイト達に和葉が真っ赤な顔のまま小さく頭を下げた。
「どうする?」
「……ええんちゃう?和葉のことは服部君が責任持って送ってくれるやろし」
「せやせや。ちゃんと映画にも連れてってくれる言うてるし」
「せやね……」
小声で囁き合って。
「和葉、そんなん気にせんでええよ」
「優待券、ありがとな。有効利用するから!!」
「心配せんでも和葉が観に行くまではネタばれせぇへんから」
「気ぃつけて帰りや。酷くならんよう、ちゃんと冷やしてな」
「うん。ホンマごめん。また今度、別の一緒に行こ」
「せやせや。またな。服部君、和葉頼むで」
「お前らもこけたりすんなや」
「こけるわけないやん。和葉やないんやし」
「どういう意味よーー!!」
「助けてくれる幼馴染なんおらへんって意味や。ほな、またな」
「おう」
雑踏の中。平次はゆっくりと自転車を押して歩き出した。
***
君はまだ憶えているだろうか。
自分にも幼馴染にも百万の力があると信じていたあの頃を。
出来ないことなどなにもないと思っていたあの頃を。
***
商店街の出口付近の薬局で湿布とネットを買って和葉の捻挫に軽く応急処置を施して。
雑踏を抜けた頃から平次は自らも自転車に乗ってゆっくりとペダルを漕ぐ。
「ったく、んなもん履いてるからや」
応急処置の際によくよく見れば、和葉が履いていた靴は初めて見るくらい踵が高かった。
「お前、そんなん履き慣れてないやろ。そらこけるわけや」
「……新しく買うたん。履くの楽しみにしてたんに」
「大体なあ。なんでそんなヒールあるん履いてんねん。怪我するん当たり前やん」
「あ、当たり前とちゃうもん。皆こんくらい履いてるし」
「お前どん臭いからな。やめとけやめとけ」
「別に。どん臭くなんないもん」
「こけとるやん」
黙りこむが、不服一杯なのは気配でわかる。
「なんでそんな高いんがええねん。お前、別にちっこくないやん」
「背ぇ高いんがかっこええもん」
「そぉか?」
「平次、今背ぇいくつよ」
「俺か?この前計った時は170……」
「やっぱ。平次のが全然おっきぃ」
「はああ?当たり前やろ?」
「なんで当たり前なん?昔はアタシと一緒やったやん」
「なんでって」
続く言葉を、気付くと飲み込んでいた。
信号に引っかかって、平次は自転車を停める。僅かに傾いだ自転車から落ちないように和葉はサドルを握る手に力を込めた。
「一緒やったんに。平次のがドンドン先に大きくなって」
「お前、俺よりでかくなりたいんか?勘弁せぇ」
振り返る平次の視線から、ぷいと顔を背けて和葉は逃げる。もう少し表情を窺いたいところだったが信号が青に変わってしまった。
なんでって。
それは。
俺が、男だからや。
どうして今。その言葉が言えなかったのだろう?
なにを。勘弁しろというのだろう?
***
君はまだ憶えているだろうか。
自分に出来ることは幼馴染にも出来て、幼馴染に出来ることは自分にも出来たあの日を。
だけどホンの少しずつ。同じだった色々が違ってきた日のことを。
***
夕焼けの住宅街を自転車でゆっくりと走り抜ける。
信号が変わって自転車が走りだしてから、和葉は口を開かない。
サドルをぎゅっと握って俯いているのは、気配でわかる。
西日が少し目に痛い。
「和葉」
「……」
「足、痛ないか?」
「……」
僅かに動く気配はあったが。応えは返って来なかった。
平次はゆっくりとペダルを踏む。
ああ。
ふ、と平次は自転車を停めた。右に曲がれば和葉の家への近道。
だけど、その道は。
「……平次?」
動かない自転車に、不審に思った和葉がその顔を覗きこんだ。
真っ直ぐ行けば少しだけ遠回り。だけど平坦な道。
右に行けば少しだけ近道。だけど。それはもの凄い登り坂で。正直一人であっても自転車で通るには抵抗がある。
あれは、いつだったろう。
「平次?どないしたん?」
あれ以来、いつも遠回りしていた。否。急な坂は登るのに時間がかかり、距離的に多少長くかかろうと実は平坦な道を選んだ場合でも所要時間はかわらないから、遠回りという表現もあれなのだが。
だけど。この道を避けるようになったのは、あの時から。
あれは、いつだったんだろう。もう、何年前のことか憶えていない。
「平次?」
「……そうやな」
「なにが、そうなん?」
徐に上着を脱いで籠に突っ込む。シャツも脱いで、中に着ていたTシャツ一枚になった。
「ちょ、平次。どないしたん?寒いやん」
実際寒風が肌に痛かったが。平次は一つ大きく深呼吸して。
再び自転車に跨った。
「和葉。しっかりつかまっとけよ」
「え、なに!?」
勢いよくペダルを踏み。ハンドルを右に切った。
「ちょっ。平次!!どないしたん!?そっち、坂やで」
「アホ。黙っとけ。舌噛むぞ」
「でも」
左右に激しく揺れる自転車に、和葉は必死でしがみつく。
腰を浮かせて全力でペダルを踏んで。平次は目の前に聳える急激な坂道に一直線に突っ込んでいった。
***
君はまだ憶えているだろうか。
ずっと同じだと思っていた幼馴染が自分とは違うことに気付いた日を。
***
坂は。短い距離ながら殺人的な傾斜で。
自転車は左右に激しく揺れたが、慣れてくればその荷台に乗っていることはさして苦ではなかった。
リズミカルに揺れる自転車に身を任せてバランスよく体を反対に傾ければ、転ぶ心配もなかった。
力強くペダルを踏む幼馴染の顔は窺い知れない。
和葉はふと坂の下に視線を向ける。
子供の頃。この坂は難関だった。事実、今でも自転車で通ることは少ない。
一人でも登りきるのに苦労する坂。
子供の頃には平次と二人、自転車で登り切れるか何度も挑戦した。いつも途中で二人とも力尽きて。
それでも。最初に登りきったのは、平次。
勝ち誇る幼馴染を凄いと思う一方やっぱり悔しくて。多分、憎まれ口をきいたのは自分だったのだと思う。
「俺やったら後ろに和葉乗っけたってこんな坂登れるわ!!」
「平次の嘘つき!!」
「嘘ちゃうわ!!」
「そんならやってみぃや!!」
「やったろうやないけ!!」
売り言葉に買い言葉。自分を乗せて平次は。
多分、半分くらい登るのが精一杯だった気がする。
「ほら!!やっぱ嘘やん」
ばつが悪くて。それでも負けたくなくて言い放った一言に。幼馴染は口惜しそうに自分を一瞬見ただけで、すぐに視線を落として。
何も言わなかった。
***
君は、まだ憶えているだろうか。
***
坂を登りきったところで。急に傾いだ自転車に、和葉は荷台から飛び降りた。痛む右足を庇って器用に自転車と幼馴染から距離を取る。
二三度肩で大きく息をして。
グラリ、と自転車が傾いだかと思うとそのまま音を立てて倒れ。同時に幼馴染も倒れこんだ。
荒い息の中、道路の真中に転がって大の字になって天を仰ぐ。アスファルトはひんやりと冷たかった。
坂は車にも厳しいので車通りは殆ど無い。通行人も少ない住宅街の道なので邪魔になることも無い。和葉はその隣に服が汚れるのも気にせずに座り込む。
「平次?」
「……」
「生きてんの?」
寧ろ普段の三倍増しの呼吸は止まっているようには見えなかったが。
いつまで経っても復活しない幼馴染の顔を覗きこむ。
「どや?」
「どうって?」
「登ったで。嘘ちゃうかったやろ」
あんなことを憶えていたのかと。正直驚きつつ和葉は小さく笑う。
「うん」
「任せとけ」
「平次、カッコよかったよ」
「ホンマか!!??」
「……ちょっとだけな」
「ちょっとかい」
破願して顔だけ上げた平次はまた寝転んで空を仰ぐ。
冷たい風にTシャツの汗が一気に温度を下げたが、一気に体温を上げた体には寧ろそれが心地よい。
「……ダテに毎日剣道部でしごかれてへんわ」
「ホンマ。アタシやって、あれから重なったんに」
「せやせや。薄っぺらいくせになんでそんなに重いんや。どこについてるっちうねん」
「平次のスケベ!!アホ!!さっきの取り消しーー!!」
「はは。嘘や。メッチャ軽くてびびったわ」
「そ、そんなには、軽ないもん。……それだけ平次の力ついたってことなん、ちゃう?」
「そうなんかな」
見上げる空はどこまでも遠く高く澄み渡り。漸く落ちついた呼吸でもう一つ大きく深呼吸する。
アスファルトの感触も吹き抜ける風も遠い空も全てが心地よくて。うっかり目を閉じかけたが思い直して半身を起こした。
「足、平気か?」
「うん。湿布貼ってもろて痛みも引いてきた」
「ほな、ぼちぼち帰るか。そろそろ湿布換えた方がええやろ」
「うん」
立ち上がって自転車を起こす。足にも腕にも殆ど違和感は無い。これくらい、筋肉痛にも至らないと言うことだ。正直、自分でもいつのまに、という驚きがある。
自転車のストッパを立てて停める、右足を庇いつつ立ち上がりかけた和葉に手を出した。
「平次?」
「なに面食らってんねん。立つん大変やろ?手ぇ貸せや」
「……平次がそんな親切なん、裏がありそうで怖いわ」
「なんやと?」
眉寝を寄せて。いきなりその脇に両手を差し込むと一気にその体を持ち上げた。
「な、なにすんの!!」
「ホンマ軽いのう。お前」
一気に顔の高さまで持ち上げるのが大した苦にならない。寧ろ呆れる。
そのまま自転車の荷台に座らせると、籠からこぼれていたシャツを着た。上着はまだいらない。再び自転車の籠に突っ込む。和葉の鞄も一緒に突っ込む。
「ほな、行くか」
「平次のアホ!!」
「なんでやねん」
「アタシは荷物と一緒なん?」
「んなこと言うてへんわ。アホ」
「うー」
「こんな取り扱い要注意な荷物、見たこと無いわ」
「誉めてんの?けなしてんの?」
「さあ。どっちやろなあ」
外されるストッパの振動に和葉が慌ててサドルにしがみつく。
抗議の声を風に流して。平次は自転車に飛び乗ると緩い坂道を遠山家に向かって走りだした。
***
君は、まだ憶えているだろうか。
あの日のことを。
最後に平次に語らせるかどうか散々悩んだ末に、語らずに行動に出させてみましたがどんなもんだか。
言わんとするところはちゃんと伝わったでしょうか。男なら。百の言葉より一つの行動ですよ服部平次!!
幼馴染を乗せて自転車で急な坂を登る。まあなんか、特に意味のない日常の一コマなんですけど。
そういうことの積み重ねが大事なんじゃないかな〜とか思ったのです。なんとなく。うん。なんとなく。
道路の真中で大の字になる平次が書きたかったのです。
さあて。ちゃんと二人で甘ったるい恋愛映画を観に行ったんでしょうか服部平次。隣でずっと寝てたんでしょうか。
和葉の肩枕ですかそうですか<そうなの?
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