電車を降りると蝉の声が耳に付く。発車のアナウンスとベル、そして電車が発車。その轟音が遠のく頃、駅の階段を歩きつつ遠山和葉は携帯の短縮ボタンを押した。
数回のコール音。
「なんや」
「アタシ。今駅に着いたん。今から平次んち行くから」
「ん」
「梅田でお土産買うて来たんよ。おばちゃん、おるんやろ?一緒に食べよ」
「ん」
「なんやと思う?」
「んーーー」
「もう!!平次!!聞いてるん?」
「んー」
「……もしかして、事件?」
「ん?」
「事件の連絡?それとも事件のスクラップとか?」
改札を出ながら電話の向こうに聞こえないようにそっと溜息をつく。
「んー。後者」
「電話かかってきた時くらい頭こっちに切り替えて!!」
「んー」
「もうええわ!!とりあえず今から行くから!!」
思い切り力強く赤いボタンを押すと、もう一度一つ大きく溜息をついた。
幼馴染が、事件になると心此処に在らずなのは今更だ。例えそれが事件に直面しているときでなくても。例えばニュースで事件を扱うのを観ている時。新聞の事件欄を食い入るように読んでいる時。府警本部で特別に取らせてもらった事件調書のメモを読んでいる時。自分で作る事件のスクラップを整理している時。服部平次の思考は120%事件に向かってしまう。
今に始まったことではない。
こんな会話はもう何千回何万回繰り返したか分からず、そして和葉はそうやって事件にのめりこむ平次が寧ろ好きなのだから我ながら始末に悪いと思う。
「絶対、他のオンナやったらとっくに切れてんで……」
あっちこっちを飛び回る高校生探偵に付き合っていけるのはきっと自分と東京の親友だけに違いない。
たまに苦言するくらい許して欲しいものだが、許す許さない以前に全く気にとめていなかったりするのだから始末に負えない。
「暑〜〜〜〜」
炎天下。思わず立ち止まり、手を翳して太陽を見上げた。雲一つない空。抜けるように蒼い。帽子か日傘が必要だったと後悔する。出かけたのは朝早かったし、梅田では殆ど建物の中にいたので気にならなかったが。この日差しでは駅から服部家までの行程は少々難儀だ。
肩にかけた紙袋が少し重い。今日は学校の友人と服を買いに行ったのだが、少々買い過ぎたかもしれない。
朝、買い物に行くと言ったら父が特別にお小遣いをくれたものだから。
「調子に乗って平次のTシャツまでアタシが買うてもうたやん。アタシってアホやな〜〜〜」
静華に言えばお金を出すと言い出すに決まっている。
「……どうせやったら、平次本人に買わせたろかな」
ギュッと紙袋を持つ手に力を入れる。Tシャツと、あと展示場でやっていた全国名産展で宇都宮の餃子を買って来た。この前一緒にTVを観てて、静華が食べてみたいと言ったから。
それにしても暑い。吹き出る汗にこのままでは脱水状態になりそうだ。
仕方なく途中のコンビニに寄って冷たいお茶のペットボトルを一つ購入。歩きながらそっと口をつける。
「美味しーー」
信号待ちの間に更に喉を潤す。余りの暑さに汗が止まらない。飲む端から汗になってるみたいだ。
「ホンマ、暑いなあ……」
涼しい日が続いて冷夏冷夏と言われて来たが。急に暑くなったかと思うと厳しい残暑が続いている。
ほんの少し傾いた太陽は、それでも威力を満遍なく発揮中だ。
「暑いなあ……」
蝉の声が響く。暑さが倍増する気がする。手にしたハンドタオルで軽く額を流れる汗を拭く。
日差しだけではない。アスファルトの照り返しも相当なものだろう。
ふと、公園の前で足が止まった。緑の深い公園の木陰のベンチに妙に心惹かれる。
確か。木が呼吸している分、木の側の気温は低いと聞いたことがある。違ったかな。どうだったかな。
……平次やったら、こういうん詳しいんやけどな。
デリカシーが足りない分、幼馴染の頭の中には妙な雑学が詰まっている。
携帯メールで聞いてみようかと思ったが、辞めた。さっきの様子ではメールが届いたことにすら気付いてもらえそうにない。
「涼しそう……」
木陰のベンチに、木漏れ日がチラチラと映ろう。
ちょっとくらい、ええやんな。
服部家までは大した距離ではない。ここで休まずまっすぐ行けば、幼馴染は兎も角冷たいお茶と扇風機と涼しげな音を奏でる風鈴が和葉を迎えてくれることだろう。
が、たまにはこういうのもいいかもしれない。
和葉はそのまま公園に入った。木が多いが、小さな公園。今は遊ぶ子供の姿もなく、蝉が煩いだけ。ベンチを軽く手で掃って一応ハンドタオルを敷いて座る。汚れるのを気にせずに背中を背凭れに預けて頭上を見上げると、僅かな風にさらさら揺れる木々の合間から木漏れ日が瞳に揺れた。
片手のお茶をもう一口飲むと。再び空を見上げて大きく一つ息を吐くと目を閉じた。
***
「冷た」
涼しい風に。それ程疲れていたわけでもないのにうっかり意識が睡魔に引き寄せられた所を、不意に頬に極寒の感触を感じて和葉は飛び起きた。
「え、あれ?」
「なにしとんのや。お前」
「平次?」
「他誰に見えんねん」
「……アタシ、寝てたん?」
「寝てたんかい!!」
見上げると幼馴染は乱暴に前髪を掻く。和葉はゆっくりと身を起こしてベンチに浅く座りなおした。
「アタシ、寝てたんかな……」
「なにしてんねん」
「だって、あんまし気持ええから……」
「そもそもここでなにしてんねん」
「休憩」
「うちまであとそんなないやん。具合でも悪なったんか?」
「ううん」
「お茶持ってるとこ見ると脱水症状ちゃうな。熱中症か?」
「せやから別に、具合なん悪ないもん」
片手のお茶はまだ冷たい。ということは目を閉じてからまだそれほど経っていないのだろう。
「具合も悪ないのにこんなとこでなにしてんねん」
「せやから、休憩」
「うちまであとちょっとやで?」
「……ベンチ、気持ちよさそうやってんもん?」
「ホンマにそれだけか?」
「それだけや」
もう一度前髪をガシガシと掻くと、平次は大きく一つ溜息をつくと、呆れたように言い放つ。
「アホ。そんなんで人に心配なんかけるな」
「心配って、そんな」
携帯を確認する。平次に電話をした時間から逆算すると、どう考えても公園で足を止めていたのは10分ちょい。服部邸到着予定時刻からもまだ5、6分しか過ぎていない。
「別に、30分とか1時間寄り道した分けちゃうやん」
「寄り道すんなら一報入れろ」
「平次に言われとうないわ!!」
思わず立ち上がって、ふと幼馴染のTシャツの汗に気付く。
「平次、汗びっしょり」
「気にすんな」
「部屋でスクラップまとめてたんちゃうの?」
「なんでもええやろ。元気なんやったら、行くで」
「……さっきの、何?」
「さっきのって?」
「アタシのほっぺに当てたん」
「ああ、これや」
差し出されたのは、アイス。
「はーげんだっつや」
「なんや朝からオカンにコンビニまで買い物に行かされたんや。昼過ぎ和葉が来るからアイスくらい買って来いとか言うて」
「緑茶や。アタシの好きなヤツーー!!なあ、今食べていい?」
「はあ?」
「あ、スプーンないか」
「ちょう待て……コンビニでもろた木ぃのヤツなら入れっぱなしや。一緒に冷えとったみたいやな。これでええか?」
「ええよ」
スプーンとアイスを受け取ってもう一度ベンチに座ると、溜息をつきつつ平次がその隣に座る。足を組むと被っていた帽子のツバを深く下げた。
「……あんま、溶けてへん」
「ん?」
「なんもない。……なあ、おばちゃんは?」
「オカンやったら、今近所のおばはんとこにお茶に呼ばれて行ってんで。晩飯までに戻る言うてたけど」
「ふうん」
「さっさと食え」
「うん」
アイスは、殆ど溶けていない。冷凍庫から出して、ホントに数分だろう。
つまり。平次がアイスを持って家を出たのはホンの数分前。
「平次、歩いて来たん?」
「自転車や」
「自転車は?」
「あー?その辺に倒れてんのとちゃうか?」
軽く顎でしゃくられた方を見ると公園の入り口に平次の自転車が放り出されたように寄りかかっている。
家を出たのは数分前。汗びっしょりのTシャツ。そして自転車。
これだけ手掛かりがあれば、名探偵でなくても謎は解ける。
「平次、アホやなあ」
「はあ?」
「そういう時は携帯に連絡くれたらええやん?」
帽子の下からちらりと一瞬和葉に一瞥をくれ、またそっぽを向いてしまう。
「……連絡ないから。連絡でけへん状態なんかと思たんや」
「まず確認すればええのに」
「そら俺が悪かったわ」
ぶっきらぼうに言うのは、照れ隠しなのかもしれない。
「なんでアイスなん?」
「うっさいわ」
「普通、冷たいお茶とかなんちゃうの?」
「うちではお茶をちっこいペットボトルには入れてへんのや」
「そうやけど」
アイスを完食して蓋を戻すとと在らぬ方向を見たまま、アイスを入れてきたらしい小さなコンビニの袋を渡された。スプーンとカップをまとめて入れる。
「美味しかったー」
「そらよかったなぁ」
「平次、喉渇いてるんちゃうん?」
「別に」
「お茶あるけど、いる?」
「……くれ」
「家から駅まで何往復したん?」
「……」
「お茶、いる?」
「小学校の前通るんとこっちの道と、二往復、と半分やな」
「はい。お茶」
差し出したペットボトルを、お礼も言わずに一気に飲み干す。飲み切ると無言で手を出すので、何かと一瞬考えて。アイスを入れた袋を渡すとそのままペットボトルも投入して側のクズカゴに捨てた。
駅から服部家まで。この短時間で二往復半とは相当な脚力だ。
くすっと笑うとじろりと睨まれる。
「そろそろ、行くで」
「うん」
立ち上がって軽くスカートの埃を払う。平次も立ち上がるとズボンを軽く叩く。この暑い中、それでも帽子のツバを後ろに被りなおす。
「ありがとな、平次」
「……なんのことや」
この幼馴染は、どう贔屓目に見ても素直な性格とは言い難い。自分もそうだからよくわかる。
「何って、アイス」
「あー。アイスな」
「アタシに早よ食べさせてくれるために持って来てくれたんやろ?ありがと」
「……さっさと行くで。アホ」
心配してくれてありがとうなどと。自分の到着を少しでも気にかけてくれていてありがとうなどと。
言ってしまえば猛烈に否定されるに違いない。
意地っ張りで強情で。ホンのちょっと心配性な幼馴染は大股で公園の入り口に向かい、辛うじて手摺に寄りかかっている自転車を起こす。
「後ろ、乗るか?」
「うん」
蝉の声が、まだ公園中に響いていた。
ああ。なんか別人平次……。まあ、たまにはね。たまにはこんくらい頑張らせてみても罰は当たらないかなと思って……どうでしょう?
平次の脳味噌も暑さで沸騰してたってことにして下さい切腹。あははー。必死こいて自転車漕いだんだろーなー(笑)
つか、自分が遅刻しがちな人間は、滅多に遅刻しない人間が5分遅れただけでオロオロするのです。そういうもんなんです。
←戻る