10月ある日の早朝。ここは服部家の客間の一つ。
布団には大汗かいて寝ている服部平次。枕元には母:静華と、白衣を着た初老の男が一人。
「先生、どないです?」
「随分熱が出とるのう。39度越えとるわ」
「なんや、この季節に寒中水泳で1時間ばっかし海ん中おったらしいですわ」
「ほほう。平坊は、昔っから頑張り屋さんやったからなあ」
起きていたら「そういう問題ちゃう」と突っ込んでいるはずの平次の意識はまだ朦朧としており、二人の会話も耳には届かない。
「ほな、ちょっと失礼して……」
寝ている平次の浴衣の胸元を開くと聴診器を当てる。その瞬間。
「あう!!」
その冷たさに驚いた平次がいきなり飛び起きる。が、勢いよく半身を起こしたもののすぐに眩暈がしたのか前に突っ伏す。
「おお。起きたか、平坊。元気か?」
「全然……」
「おお。せやろうなあ。熱が40度近くありおんぞ。で、気分はどうや」
「最悪や……」
扁桃腺が腫れているらしく、息をするのも億劫な様子が見て取れる。声も小さく、覇気がない。
「も少し具体的に教えてくれんかの」
「頭痛い……体だるい……重い……熱い……関節痛い……喉痛い……」
「おお、立派に風邪の諸症状が揃っとるわ。ほな、起きたついでに喉見せてくれい」
強引に口を開けられるが、なすがままになっている。
「おおー。腫れとる腫れとる。こりゃ、今日一杯は流動食やな。お粥か、りんごの擂ったのくらいかの」
「なんも……食う気起きひん……」
男の名は牧野。服部家の主治医だ。平次も子供の頃から世話になっており、気心の知れた間柄だ。
「ま、わしの出す薬飲んで一日寝とったら明日にはぴんしゃんしとるわ」
「じじぃの薬……苦いから……いやや……」
「平坊、お前、今度高校生になったんやって?図体ばかりでかくなりおって、甘えたこと言うたらあかんやろ」
「もう高二や……」
ぼんやりした頭で、平次は苦笑する。
そういえば牧野のじぃさんにかかるのも何年ぶりやろか。ここ数年、医者にかかるほどの風邪は引かんかったし。
「大丈夫やろか」
「大丈夫大丈夫。ただの風邪や。肺炎も併発しとらんし。平坊は相変わらず丈夫やのう。静華さんらは気にせず出かけたらええわ」
「ホンマですか?よかったわぁ」
心底嬉しそうな静華の声に平次は脱力して再び布団に倒れ臥した。牧野が布団をかけてやる。
も少し……心配してくれてもええんちゃうのか?瀕死の息子放ってでかけるやと????
そう喉元まで出た言葉を、平次は慌てて飲み込んだ。耳慣れた心地よい声がする。
「おばちゃんらが出かけるんやったら、アタシが平次看とくよ」
遠山和葉である。和葉の前では弱音を吐けない。余計に心配かけるのがおちである。
「あかんあかん。和葉ちゃんはもう帰りぃ。昨日も平次背負って大変な思いして帰って来たんに。それをこんな朝早くから来てくれて。ちゃんと寝たん?」
「でも、おばちゃんら、仲人さんやし結婚式欠席できへんやん?アタシ、今日も予定ないし」
「あかん。もう平次は大丈夫や。先生もそう仰ってるしな。和葉ちゃん、も少し休みぃ。まだ疲れとるはずやで。おばちゃん、和葉ちゃんの方が心配やわ」
「アタシは、大丈夫やもん」
二人のやり取りに目を細めていた牧野が平次に耳打ちする。
「なんや、平坊。いつの間に和葉ちゃんをモノにしたんや」
「してへんわ……アホ……」
「久しぶりに会うたけど、随分べっぴんになったもんや。なんやこう、色気も増して。そうかそうか。ほうほう」
「ちゃうっちうに……」
平次は目を閉じたまま、更に右腕を自分の目の上に乗せる。なるべく、表情を悟られないように。
「和葉……」
「平次!!」
「お前、もう帰れ……」
「え!!??」
「うっさいから、帰れ。俺、もう寝るし」
「せやけど……ずっと寝てるわけちゃうやん。氷とか、替えなあかんし」
「そんくらい、自分で、するわ。おかんも、おとんも心配せんで、行って来い」
「うちらは元々そのつもりやけど」
「あー」
平次からも拒絶された和葉が泣きそうになりながらもう一度静華を見る。
「そんな顔してもあかんよ。和葉ちゃん。さ、おばちゃんらももう出かけるし、家まで送ったるから」
「……」
「先生も、お送りしますわ。ちょう、待っといてくださいな」
「おお。助かりますわ」
静華に促されて三人が立ち上がる。平次は身動ぎもせず、その気配が去るのを待つ。
ふ、と和葉が踵を返して平次の枕元に座り込む。
「平次、ホンマに大丈夫なん?アタシは全然平気やし、意地張っててもあかんで。こんな時に」
「意地ちゃう。ホンマに、平気や」
「せやけど、そんなしんどそうにして……」
和葉の細い指が平次の頬に触れる。
「めっちゃ、熱いんやけど」
「大丈夫や。少しは俺を信用せい」
「んー」
部屋の外から自分を呼ぶ声がする。和葉は仕方なく立ち上がった。
「無理したら、あかんよ」
「おー」
「なんかあったら、電話してや。枕元に、子機おいといたから」
「んー」
襖の閉まる音がして、客間に再び静寂が訪れる。
遠くに僅かに人の声。それもいつしか車の音とともに去って行き。
平次は再び意識を眠りの中に沈めていった。
***
自転車のブレーキ音。玄関が静かに開けられる音。廊下を行く気配。
深い眠りの中で、それらが朧げに平次の意識に到達した。
あのアホ。
時計を見るとまだ朝の10時。
程なくして服部家の客間に姿を現したのは遠山和葉である。
着替えている所を見ると、一度家には帰ったらしい。いつものポニーテールからはシャンプーの香りがする。
黙ったまま平次の額の氷を取り替えようとする。その手が、不意に動いた平次の手に取られた。
「平次!!」
「……何しとんのや……お前……」
「……」
「帰れ、言うたろ」
「か、帰ったもん。もう来るなって、平次言わんかったやん」
「ほな、帰れ。もう、来んな」
「平次……」
平次の手はまだ熱い。しんどいのか乱暴に吐き出される声には取り付く島もない。
「なんでや。アタシに看病されるんは、嫌なん?」
「そんなこと、言うてへん」
「風邪で倒れてる平次の写真撮ってクラス中に晒すって言うたん、小学校ん時やん。あん時は喧嘩しとったし、結局せぇへんかったし。根に持ってるん?」
「アホ、そんなん、ちゃう」
「じゃあ、ええやん」
和葉は自分の方を見ない平次の目を覗き込む。平次は顔を背けてその視線から逃げる。
「弱ってる時くらい、人の好意は素直に受け取っておくもんやで」
「そんなん、傍迷惑、言うんや」
迷惑、という言葉に和葉が身を固くする。和葉の気配を察知した平次が、視線を戻して和葉の目を見る。
「ま、しゃあないから、氷くらい、取り替えて、もらおか。せやけど、終わったら、帰れや」
「折角、来たんに……」
不平をもらしつつもちょっとだけ嬉しそうに笑い、平次の額の氷を替える。
額のヒンヤリした感覚が心地よく、平次も少しだけ笑う。しかし、すぐにその顔を引き締めた。
「ありがとさん、や。さ、もう帰れ」
「なんでよ……」
「あかんもんは、あかん。帰れ」
「平次のアホ!!」
「アホで結構……帰れ」
すっと立ち上がると、替えた氷を持って客間から何も言わずに出て行く。
襖が閉められ、再び、客間に静寂が訪れる。
***
案の定。平次は客間で一人、大きくため息をついた。
いつまで経っても和葉が帰って行く気配がしない。仕方なく平次は布団から身を起こした。
眩暈が酷く、立ち上がるのが辛い。少し熱が引いてきた気がするが、それでも関節痛もまだある。
とりあえず襖の所へ這って行って、襖を支えに立ち上がる。半端じゃなく、しんどい。ゆっくりと襖を開ける。
一歩、二歩。
視界がブラックアウトし、不覚にもそのまま廊下の壁に倒れ掛かる。物音を聞きつけた和葉が居間から飛び出してくる。
「平次!!」
「帰れ、言うたろ……」
「何言うてんの!!こんなフラフラで何してんのや!!もう、布団戻り!!」
「便所、行くだけや。それとも、なんや、手伝ってくれるんか?」
和葉が真っ赤になって絶句する。
「あ、歩くのくらい、手伝えるし」
「便所は目の前や。這ってでもいけるわ」
どうやら一階の客間に寝かされているのはそのためらしい。
「も、もう!!とにかく、ほら、つかまって!!」
「触るな、アホ!!」
怒鳴られた和葉が驚いて差し出した手を引っ込める。
「いらんこと、すな。なんで、帰らへんのや」
「だって……こんな平次、一人にしとけんやん」
「アホ。お前も少し寝とけ。昨日、寝たんか?」
「ね、寝たもん」
「ちゃんと6時間以上、寝たか?」
「……」
「ほら見ぃ」
「なんで……」
「鏡見てみぃ。酷い顔や」
「……」
恨みがましそうに平次を見上げるが、平次は再びその視線から逃げてしまう。
「人のことより、まず自分や」
「せ、せやったら、居間で寝かしてもらうから。それやったら、ええやろ?しんどなったら子機から電話して。な」
「あかん。居間なんかで寝ても疲れとれへん」
「せやったら、ちゃんと布団借りるから。いつも泊まる部屋の布団で寝てるし。な」
「お前、しつこいぞ」
「せやかて」
和葉の瞳が少しだけ、潤む。
「アタシ、心配なんやもん。離れててまた平次に何かあったら、嫌なんや」
「なんも、ないわ。じじぃに薬もろたし、じき治るわ」
「でも、何かあったら、うちからじゃここまで時間かかるし。な、ええやろ?な?」
「何もあらへんわ」
「アタシ、心配で……それで昨日も寝れんかったんやもん。今日帰っても、寝れへん。ええやろ?」
和葉の涙に勝てるわけがない。
「……そんかし、ちゃんと寝とけよ?絶対やぞ?俺、おかんに殺されるわ」
「うん。ありがと、平次」
大きくため息をつくとそのままトイレに入る。といっても相変わらず眩暈が酷いため一挙手一投足に時間が掛かる。
用を足して出てくると、いつも寝間着にしている浴衣姿の和葉がいた。
「ほら。ちゃんと、着替えたし」
「おーおー。ほな、お休み」
「あ、平次」
ぐらつく平次の体を慌てて和葉が支える。辛うじて踏みとどまった平次が襖を支えにして和葉から離れる。
「触んな、ちうんや。ほなな」
「あ、あんな。りんご、擂ってん。少し、食べて。ビタミンは風邪にええのんよ」
「……」
「食べてくれな、寝ェへん」
「お前……病人脅すなや……」
「布団入って待っててな」
なんや……あかんで……これは……完全に和葉のペースちゃうか?
布団に這い入りながら平次はまた一つ、大きくため息をつく。全く、うかうかと寝ていられない。
「はい。平次。りんごやで〜」
「おー」
「平次、子供の頃からりんご擂ったん好きやもんねぇ」
「風邪引かな、食えんかったからな……」
身を起こして皿を受け取ろうとするとひょいと逃げられる。
「あかん。病人は、大人しくしとりぃ。ほら。あーん」
「……アホ」
「アホってなんよ。食べさせてあげるのに。ほら」
「自分で食えるわ。貸せ」
「あかん」
「せやったら、食わん」
また、恨みがましく見上げられる。
「もう!!意地っ張りやねんから!!」
りんごの皿とスプーンを貰い、自分で食べる。関節痛で体を動かすのが億劫なため、その動きは酷く緩慢だ。
「ほら。やっぱしんどいんやん」
「ゆっくり食うてるだけや」
「ホンマに?」
「ホンマや。食ったら皿は枕元置いとくから、お前はもう寝ぇ」
「平次が食べ終わるまでここにおるもん」
「なんでや」
「全部食べるか、心配やもん」
「食う食う」
「ホンマに?」
「ホンマや」
「絶対?」
「ちっとは信用せい」
「信用ならん男やからなあ」
「……」
さっさと食べねばと思いつつも体は思い通りに動かない。ここでゆっくり食べ続けるか。和葉に食べさせてもらうか。
これはまさに、時間と距離の問題になってくる。
諦めて皿とスプーンを差し出すと、和葉の顔に満面の笑顔が広がった。
「そんかし、俺の半径1メートル以内には入んなや」
「やりずらいやん」
「そんでも、あかん」
1メートルじゃ届かんやん、と言いつつ、それでも精一杯平次から離れて誇らしげに摩り下ろしりんごを差し出す。
「しゃあないなあ。はい、あーん」
「……」
ものの五分もしないうちに皿は空になり、和葉は至極満足げに「お休み〜」と客間を辞退した。
再び、客間に静寂が訪れる。
***
時計を見ると17時。客間に差し込む陽はすっかり西日だ。
随分と薬の効果が顕われている。楽になってきた。汗びっしょりになった浴衣を脱いで、枕元に静華が置いていった浴衣に着替える。
今朝からずっと着ていた浴衣は、絞れそうなくらいに汗を吸っている。どおりで喉が渇くわけだ。
ちょっと前、多分、15時頃にも一度トイレに立ったが、和葉は起きてこなかった。ちゃんと寝ていたらしい。
しかし今は人の動く気配がしている。起きだして、何かしているらしい。程なくして襖が少しだけ開かれる。
「なんや……」
「平次。起きとったん?」
「ちゃんと……寝たんか?」
「うん。寝た寝た。ぐっすりや」
「頭、痛ないか?」
「?痛くないよ?」
「喉は平気そうやな。体……だるないか?関節痛いとか……」
「もう!!それは平次やろ??どんななん?まだしんどい?」
襖を開けて入ってこようとする。
「入ってくんなっちうんや」
「なんでや。熱計れんやん」
「体温計、そっから投げろ」
「なんでそんな意地っ張りなん?病人のくせに」
つかつかと入ってきて、平次の額に手を置く。それから水銀体温計を振って水銀を落とすと平次に差し出した。
「まだ、全然熱いやん。ほら、計ってぇな」
「入ってくんな、言うたろ。入ってくるなら、半径1メートルの外や」
「そんなヘロヘロになって睨まれたかて、全然怖ないんやーー」
「何か、あったら、呼ぶ言うたろ。お前は、大人しく、居間でTVでも、見とけ」
「ここでもTVはあるやん」
「絶対あかん。俺が寝れん」
「じゃあ大人しく本でも……」
「あかん」
体温計を脇に挟み、和葉に背を向けて横になる。
「そんなに、アタシに看病されるん、嫌なん?」
「ちゃう、言うてるやろ」
「弱ってるの見られるん、そんなに嫌なん?」
「ちゃうっちうに」
「アタシは」
和葉が言葉を切り、沈黙が流れる。居心地が悪いがここから動けない平次はどうしようもない。
時計をちらりと見る。熱を計り終るまで大体5分。早く経たないかと秒針だけが気になってしまう。
早く、和葉をこの部屋から追い出す口実を考えねば。
「アタシは、困ってる平次の力になりたいんや」
「いや、気持ちだけで、ええから」
再び沈黙が訪れる。時計の針は4分を過ぎた。ちょっと早いが大丈夫だろう。体温計を出す。
「38.5度……」
随分楽になったと思たんにまだ全然熱あるやんか。くそう。
「まだあかんなあ。今お粥作ってるから、食べてな。そんで、も一回薬飲んで。病人は病人らしく面倒看られとったらええのんや!!」
「それが、いらん、世話や、て……」
和葉の眉が悲しそうに潜められ、平次はまた慌てる。和葉のこの顔には弱い。
「ま、和葉が優しいんは、こん時くらい、やからな……」
「せやせや。ありがたく、面倒看られとき」
「お粥置いたら、出てけや」
「なんでや。食べさせてあげるって」
「あかん。あんな熱いもん、早々、食べ終わらんし。自分でゆっくり食うわ」
「何今更恥ずかしがってるんよ!!」
「ちゃうて」
「やったら、なんなんよ!!」
「とにかく」
まだ少し喉がしんどい。
「お前はこの部屋に、おったらあかん」
「おらんかったら、看病できんやん」
「だから、看病もいらん、ちうとるんや。ええな。10分以上おったらあかん」
「なんよ。その10分って」
「ホンマはもっと短したいけど、まあ、目安や。そろそろ出てけって」
「お粥、もってまた来るからね」
「ええけど、すぐ出てけや」
憮然とした表情で立ち上がる。黙ったまま、平次が枕元に投げておいた汗びっしょりの浴衣を手に踵を返す。
意地っ張り意地っ張り言うけど、和葉の方がよっぽど意地っ張りや。
「あ、和葉……」
和葉が襖を閉める手を止める。
「なに?」
「お粥……梅干三つくらい……乗せてくれ」
「……了解……」
***
程なくして現れた和葉からお粥と薬を奪って部屋から追い出すことに成功した平次は、一人優雅な夕食についた。
和葉にもしつこく言っておいたので今頃はちゃんと夕食を取っている頃だろう。
確かに和葉のお陰で心細いことは全くなかったわけだが。
「それでも、やっぱなあ……あかんやろ……」
ゆっくりゆっくりお粥を口に運びながら呟く。
「あいつ……覚えてへんのかな……。前に、俺が、風邪引いて、倒れとった時のこと……」
和葉の作ったお粥は美味しい。梅干三つ、と言ったからだろう。お粥自体の味は薄めだ。ホントに、気が効く。
細かいことに気が回る和葉の看病はホントはありがたいのだが。気弱になったときの温かい心遣いはホントに嬉しいのだが。
「この前の二の舞だけは、勘弁や……」
和葉の好意に甘えるわけにはいかない。
どうにか完食すると一人合掌して口の中で「ご馳走様でした」と呟く。苦い薬を水で流し込む。
和葉が部屋に入ってこないで済むように襖の外に皿やらコップを置き、平次は再び布団に潜りこんだ。
薬の作用だろうか。あっという間に深い眠りにつく。
時計の針が18時を回る。外はもう、暗い。月明かりが雲にさえぎられている。闇が、客間を支配する。
***
襖が開く気配に目が覚める。細く目を開けても辺りは暗闇。音もせず入ってきた人物の姿は全く見えないが……気配で明白だ。
「なんや。用ないなら、出てけや」
「平次……」
冷たい指が平次の頬に触れる。
「まだ、熱、あるんやね」
「……随分、楽になったわ。明日には平熱や」
「うん」
「半径1メートル以内は、あかん、言うたやろ」
動く気配がない。
「出てけ。和葉」
「嫌や」
「出てけ、言うてるやろ」
「嫌やもん」
「なんで、お前、意地っ張りやねん」
「意地っ張りは、平次や」
「アホ、お前や」
「アタシ、が」
ヤバイ、と思ったときにはもう遅い。和葉の声が湿っている。
「アタシが、心配するんは平次には迷惑なん?」
「いや、別に、そないなことは……」
「アタシじゃ、あかんの?」
「そういう問題、ちゃうんや……。とにかく、あれや。ここにおったら、あかん」
「なんでよ。アタシ、心配やもん。やっぱ平次のこと心配やもん。心配したら、あかんの?」
「あかんこと、ないけど」
「迷惑なん?」
「いや、迷惑ちゃうけど、……嬉しいけど、な」
「ホンマに?」
「ホンマや」
「せやったら……」
「でも、ここにおるんは、あかん」
平次の頬に置かれていた和葉の手がピクリと動く。
「なんで」
「なんでって、そら……あかんやろ」
和葉の手を取って自分の頬から和葉の膝元へ移動させる。その手を、和葉が握った。
「アタシ、平次と一緒におりたいんや」
「あかん」
「こんな平次、放っとかれへん」
「大丈夫や。もう随分楽やし。明日の朝には治るから。な」
「おばちゃんらが帰るまで、ここにおる」
「あかん。帰れ。帰らんのやったら、居間におれ。ここにおるんは、あかん」
「なんで!!一緒にいたら、あかんの?」
「あかん、でてけ!!」
語気を荒くすると暗闇の中で和葉が僅かに怯む。怯んだ隙に握られた手を引いて和葉に背を向けて布団に潜りこむ。
「平次のアホ!!意地っ張り!!」
「なんでもええわ!!出てけ!!」
「もう知らん!!」
「願ったりや!!」
身を翻して客間から出て行く。
再び、静寂と闇が客間を支配する。
***
一度は確実に去った筈の和葉の気配がまだ廊下でする。しかも動かない。5分。10分。12分……。
平次は再び嘆息とともに布団を這い出る。そのまま這って襖を開ける。
「なにしとんのや。お前」
「部屋におったら、あかんって平次言うから。ここにおるんや」
「アホ。廊下の方が寒いやろ。居間におれ」
「いやや」
襖の向うに座り込んだ和葉は、それでも寒いのか毛布に包まっている。それにしたって板張りの廊下はシンと冷える。
「居間なんすぐそこやん」
「ちょっとでも側におる」
「なんや、どないしたんや、急に」
「……暗くなってくると、やっぱ不安やねん。平次一人にしとくの」
「関係あらへん。もう随分楽になってるっちうに。心細いんはお前やろ」
「……」
「せやったら、帰れ。な。俺もう、平気やし」
「いやや」
「もう知らんのんちゃうんか」
「もう知らんもん。平次の言うことなんか聞かんもん」
「アホ。とにかくこんな寒い所おったらあかん。ケツ冷やすで」
「ええもん」
「ええことない」
「平次の言うことなん、もう知らんもん!!」
ぷいっと横を向いて毛布に顔を埋める。平次の言葉に耳を貸すつもりはないらしい。
「しゃあないなあぁ」
「ホンマ!!??」
「……まだ何も言うてへんのやけど」
そのまま客間に這い戻ると、和葉が嬉しげについて入る。
「お前の居場所は、そこや。動くなや」
そう言って、這ったまま布団をずらして広い客間の隅の方、和葉と対角になるように移動させる。
「そんなに、アタシが側におったらあかんの」
「あかん」
「なんでよ」
「そらお前」
平次は再び和葉に背を向けて布団に入り込む。襖が閉められ、部屋に僅かに入っていた光が消える。
月明かりに二人の姿が浮かび上がる。先ほどまでの雲はどこかへ行ってしまったらしい。
「うつるやん」
「え?」
「側におったら、風邪うつるやろ。この部屋なん、もう風邪菌でいっぱいやで。そんなところにお前おいとけるか」
「……」
「せやけど廊下の方が寒いやろ。ま、こんだけ離れとったらなんぼかは……」
「平次、アタシのこと心配してくれてたん?」
「当たり前や。せやけどもう、お前が言ったんやからな。これで風邪引いても、俺は知らんぞ」
「平次……」
部屋の隅で、毛布に包まる和葉の気配が、ホンの少し動く。
「そんで、帰れ、言うたん?」
「せや」
「そんで、寝ろ、言うたん?」
「せや。和葉かて疲れとったやろ。あんな状態でこんなところにおってみぃ。一発でやられんで」
「そんで、大丈夫か、言うたん?」
「せや。和葉に風邪引かれてみぃ。俺、おっちゃんとおかんに殺されるわ」
和葉が這い寄るのが気配でわかる。
「動くな、言うたやろ」
「だって」
「だってもへちまもない。離れてろ。俺まだ、治ってへん」
「治ったら、一緒におってもええ?」
「勝手にせぇ」
「えへへ」
「なんや、きっしょいなあ。ちうか、離れてろ、言うたやろ!!」
ひんやりとした指先が、頬に触れるのを平次が払いのける。
「せやったら、手」
「手ぇ?」
「手ぇ貸して。思いっきり延ばしてギリギリのとこにおったら、半径1メートル以上や」
「お前の居場所はあそこや言うたやろ」
「離れてると、平次が生きてるか心配やねんもん」
無理に平次の右手をとるとホントに誠意一杯の距離に自分も体を横たえる。
「もう、俺は知らんからな」
「ええよ」
「……お前、覚えてへんのか?」
「何を?」
「前に俺が風邪引いた時の事や」
「んーと……」
「中一ん時や。お前、看病する言うて、うちに泊まりこんだやろ」
「せやったかもしらん」
「そんでお前、一晩中俺の枕元におって、次の日風邪引いて倒れたやん」
「……覚えてへん」
平次が大きくため息をつく。
「やっぱなあ。……俺が一日で治ったん、お前三日も寝込んだんや」
「あー。あの風邪って、平次にうつされたんやったっけ」
「俺がうつしたんちゃう。お前が勝手にうつってったんや。せやのに俺より酷うなりおって」
「……」
「おっちゃんには面会謝絶にされるし、おかんには殺されかかるし、大変やってんで、俺」
「へぇ……」
「おかんもめっちゃ反省しとったわ。和葉ちゃんに看病させるんちゃうかったわ、て……」
「それでおばちゃんも、昨日も今日も帰れ言うたんや……」
「そうや。どうしたかて、俺と和葉やったら俺の方が丈夫や。ちうか、俺は平均よりめっちゃ丈夫や。その俺が倒れる風邪菌やで。和葉なん、イチコロや」
「そんなん、言うてくれたら……」
「忘れてるとは思わんかったんや」
「ごめん……」
平次の手を握る和葉の手に力が入る。
「ありがとな、平次」
「何泣いてんねん。それにそれはこっちの台詞や。まあ、りんごとか、お粥とか。助かったわ。ありがとな」
「ええねん。そんなん。ごめんな、平次。アタシ、わがままばっか言って……」
「おー。わがままばっかやったで。なんでこんな意地っ張りなんや思たわ」
「せやかて……離れてると平次、海に落ちたりするやろ。心配やん」
「アホ。早々大事にはならへんわ」
「せやけど」
「だから、泣くな言うてんのや」
「うん」
時計の針が19時を指す。
「俺……また少し……寝るから。手ぇ離して……くれ」
「寝ててええよ。アタシ、ここにおるから」
「もう……俺は知らんぞ……」
「うん」
落ちるように平次の手から力が抜け、程なく規則正しい寝息が聞こえてくる。
静寂が、再び客間を支配する。
***
殺気を感じて飛び起きた客間にはいつの間にか明かりがついていた。そして目の前には平次にとって史上最強の人物が立っている。
「お、おかん……」
「平次……あんた………」
隣には安らかな寝顔で眠る和葉がいる。平次の手をしっかり握ったまま。同衾はしていないがいつの間にか距離が近づいている。
慌てて和葉の手を振り解く。
「な、なんもしてへん!!俺はなんもしてへんぞ!!」
「あんたにそないな甲斐性があるとは、うちも思てへんけどな……あったらとっくに……」
聞き捨てならないことを言うが、今は突っ込んでる場合ではない。
「それよか、説明してもらおか。なんで、和葉ちゃんがうちにおんねん」
「それは、和葉が勝手に来たんや!!」
「なんでこの部屋におんのや?」
「だから、それも勝手に!!」
「なんであんたと手ぇ繋いで寝てんねん」
最後だけ、少し声が低くなる。
静華の背後で和葉が目を擦りながら起き上がる。
「あ、おばちゃんや。お帰りなさい〜〜」
「ただいま、和葉ちゃん。ありがとなあ。なんや結局平次の面倒見てもろてしもうて」
「ちゃうんよ。おばちゃん。アタシがわがままばっか言うて、平次困らせてもうたん。平次、もう大丈夫なん?」
「大丈夫や。もう、ピンシャンしとる。なあ」
なあ、と振り返られた平次が激しく首を縦に振って同意する。
「よかったぁ」
半分眠った頭のまま、和葉がほにゃあっと笑う。平次にとって、今はこの笑顔だけが拠り所のように思われた。
「和葉ちゃん、遠山さん、来てはんねん。和葉ちゃん、何も言わんと出かけたやろ。心配してはるわ」
「あ、そうやった。何処におんの?お父ちゃん」
「玄関や。すぐ行ってあげぇ。平次はホンマ、大丈夫やから」
先ほど静華の声が低くなったのは、一応、玄関で待つ遠山を憚ったためらしい。
「ホンマ?平次」
「お、おう!!も、もう、全然大丈夫や!!ほ、ホンマ、ありがとな!!明日、明日な。またガッコで」
「うん。迎えに来るよ」
「ま、待っとるわ」
「じゃ、平次、おばちゃん。おじゃましました!!」
深く頭を下げて客間を出る。にこやかな笑顔で手を振って見送った静華が、再び表情を固くして後ろ手で襖を閉めた。
「さ、平次。聞かせてもらおうやないの」
「だから、全部和葉が」
「ちゃんと男らしゅう、断れへんのか」
「な、泣かれたら俺かてなんも言われへんわ」
「甲斐性ないくせに中途半端なことするんやない!!」
返す言葉も見つからない。
「これで和葉ちゃんが風邪引いたりしたら、あんた、ちゃんと責任とるんやろうねえ」
「俺は精一杯努力したんや!!せやかてあいつがうつってもええって……」
「なんや、台所にお粥とかリンゴあったけど。あんた、まさか和葉ちゃんに食べさせてもろたりは」
「うっ……」
「まさか、浴衣着替えるん手伝わしたりは……」
「してへんしてへんしてへんしてへん」
ずい、と間合いを詰める静華から逃げようと立ち上がりかけるが、まだ眩暈を覚えて片膝をつく。
あかん。また熱が上がってしもたかも知らん。
それ以前に。明日、生きて学校に行けるかは甚だ疑問である。
「明日な。またガッコで」
すまん。和葉。約束、守れそうにないわ。
……どーしてこうなっちゃうんでしょうね……。風邪引き平次ですよ。和葉チャンの看病ですよ
恋愛ゲーに付き物の看病イベントですよ!!それなのに!!それなのに!!
ここまで引っ張ってこんなオチかよ!!
という平次の叫びが聞こえてきそうです。とほほ。まあ、手ぇ繋いで寝れただけでも……うん。
ご、ごめん。平次。強く生きてくれ。
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