蝉の声がうるさい。
が、これぞ夏、と言う気分もある。蝉の声をバックコーラスにチリリンと風鈴が鳴る。薄いガラスの江戸風鈴。
幾分傾きかけた太陽をの下、服部平次は自宅の縁側に胡座をかいて座ると庭の向日葵にふと目をやる。
「平次。うちもう出かけなあかんから」
「おう」
廊下から響く静華の声に、平次は軽く応える。パチンという音がして、孤を描いて飛んだ足の親指の爪が足元の新聞紙の外に落ちる。
「お。やば」
慌てて指の腹で拾い上げて新聞紙の上に落とす。パチン、パチン、と爪を切り続ける。
「平次、悪いけど、庭の朝顔と向日葵な。水あげといて。バタバタしとって昼にあげてへんねん」
「おー」
「それから、もう少ししたら和葉ちゃん来るから。晩御飯、冷麦な。なんや和葉ちゃん、最近食欲ない言うてたから心配やわ。夏バテとかせぇへんとええのんやけど」
「へ?」
「あとオクラと若芽あるから三杯酢作って酢の物な。トマトとキュウリも切ってあげて。あとナスもあるから……」
「ちょう待て」
「あと、昨日来た桃、食べてええから。和葉ちゃん来たら剥いたって。スイカもあるから桃は一人一個でエエやんな」
「せやから、ちょう待てって」
胡座をかいたまま縁側から声をあげる。ようやっと、静華が顔を出す。
「なんやの?そんなとこで乱暴な声あげて」
「おかん、今から出掛けるんちゃうんか?」
「せや?」
「和葉と出かける言うてへんかったか?そんで晩飯食って帰ってくる言うてたやん」
「あ、せやせや」
爪を切り終わり新聞紙を丁寧に折り畳むところへ静華が寄って来る。
「あんたに言うてへんかったっけ?今日、和葉ちゃんと出掛けるん、辞めになってもうたんや」
「はあ?そんなん初めて聞いたで」
「そうやったっけ?ま、ええやん。あんたどうせ暇なんやろ?どうせ夜はうちでスイカ食べる約束やったんやし、ええやん。御飯くらい作ってあげても」
「和葉と行くはずの買い物は、どないしてん」
「それ延期になったんや。急に本家の方から連絡があって。うちそっちにいかなならんの」
「まあたあの叔父さんか。ホンマ、いっつも急やなあ」
「ま、本家のことやししゃあないわ。でも和葉ちゃんとの約束ドタキャンになってもうたやん?和葉ちゃんも残念がってたから、代わりに平次が晩御飯作ってくれるから予定通りうちに来て御飯食べてスイカ食べたらええよ、って言うといたから」
「俺が飯作るんは決定事項かい」
「当たり前やろ?せやから和葉ちゃんにやらしたらあかんで。あんたが作るんよ」
どの辺が当たり前なのか聞いてみたいところだったが、どうせ何か言い返したところで無駄だろうと止めておいた。
暇だし一人で晩飯を食べるのもなんだし、後でクラスの友人にでも連絡して外で飯を食おうと思っていたのだが。とりあえず約束前で助かった。
「ほんなら、庭の水遣りと、御飯。よろしゅうな」
「へぇへぇ。気ぃつけて」
ガラガラと玄関の引き戸が閉まる音と、カチャリと鍵の閉まる音がして、ひょいと静華が庭の方へ顔を出す。
「うち、帰るん遅なるかもしらんから。あんまり和葉ちゃん引きとめるんもなんやし、うちが帰ってくるん待たんでもええから」
「おう」
「帰りはちゃんと送ったげるんやで?」
「わかってるっちうに」
紺地の呂の着物を粋に着こなした後姿が門の外へと消えていく。平次は少しだけ眉間に皺を寄せ、それでも諦めたように立ち上がった。
***
油蝉より寧ろ蜩の声が一段高くなってきた頃、庭の花にホースで水をやっていると軽やかな自転車の音が近付くのに気付いた。
「こんばんわー」
「おう」
玄関から庭に直行する幼馴染にホースを向ける。一応目標は和葉の頭上の更に向う。そうすると、細かい飛沫が虹を作って和葉にハラハラとかかる。
「冷た!!」
「暑かったやろ。オレの気持ちや。受け取れ」
「もーー!!服まで濡れてまうやん!!」
「そんな服なんか水着なんかわからんカッコ、濡れてもエエやん。別に」
キャミソールにショートパンツ姿の和葉は、それこそ「タンキニです」と言い通せそうな格好だ。
「すぐ着替えたらエエやん。おかんが新しい浴衣、出してったで?」
「せやけど!!下着透けるやん!!ドスケベ!!」
「アホ。そういう台詞はもう少し色っぽくなってから……お?」
急に水の出なくなったホースを思わず覗き込む。瞬間、再び噴出した水が平次の顔面を襲った。
「うわ!!何すんねん!!」
「引っ掛かった引っ掛かった!!平次のアホ!!」
「何古典的な事してんねん!!」
「その古典的な手に引っ掛かる方がアホや!!」
「なんやと!!もっかいくらえ!!」
「こっちに蛇口があること忘れてるんちゃう?」
蛇口は庭の玄関側にある。つまり、和葉の横。口惜しいが、この際主導権は和葉にある事を認めざるを得ない。手早く蛇口を閉められてはジエンドだ。
「お前のせいでオレまで濡れたやん」
「最初に攻撃したん、平次やん。……でもなんや、ちょっと嬉しかった」
「ほれみぃ。やっぱ暑かったんやん」
「んー。それもあるけど」
思案顔の目だけが少し笑っている。その視線の先には、一本の向日葵。
「あるけど、なんやねん」
「内緒」
「なんやそりゃ」
蝉の声が途切れる。不意に訪れた静寂に和葉の表情にほんの少しの戸惑いが浮かぶ。
「……内緒やもん」
「さよけ」
わざとそっけなく返して幼馴染の反応を窺う。和葉の視線は向日葵に向けられたまま。
何処か愛おし気に向日葵を見つめるその唇から。小さな安堵の溜息が漏れたのに気付いて首を捻る。
なんやろ。
庭に咲いた大輪の向日葵。太陽を見上げるこの植物は心持ち首を上にして大きな葉を広げて精一杯日の光を受けようとしている姿が微笑ましい。大きな花に比べて、茎は随分と細いように思える。かなり確りはしているが、それでもその花を支えるには細く思われる。その姿は寧ろ健気で、好感が持てる。
が、服部家の庭では浮いた存在だ。基本的に、服部家の庭は静華が手入れをしている。自然、茶道関係の草花が多い。
待雪草、水仙、雪柳、牡丹、梅、椿、雪割草、山藍、柊、桜、藤、花水木、木蓮、菜種、大和団扇、桃、一人静、染井吉野、小手鞠、梶苺、芍薬、菖蒲、百合、撫子……etc、etc。
残念ながら向日葵は大き過ぎるし趣には少々欠けるし、お茶席に侍る事はまずありえない。が、何故か静華は毎年向日葵を育てている。
最初は平次の小学校の夏休みの宿題だった。学校で育てていた鉢植えを夏休みの間自宅に持って帰らされて、観察日記をつけさせられた。その時にできた大量の向日葵の種がいくつか庭に落ち、翌年、期せずして向日葵の芽が出た。
喜んだのは、和葉。
「おばちゃん、これ、お水あげて育ててもええ?」
「ええよ。折角生えてきたんやもん。ちゃあんと花、咲かせたるんやで」
「うん!!」
当初、服部家を訪れる静華の茶道仲間は「折角のお庭やのに」と眉を顰めることもあったが、毎年のことなので何も言わなくなった。
そういえば。つい最近にもそんなことを言った人がいなかったろうか?
ふとした記憶の連鎖が一つの小さな事件に繋がる。
ああ。そういうことか。
あれはホンの数日前。場所は服部家の応接間。庭の向日葵がよく見えた。
「お嬢さん、向日葵好きなん?」
「え、ええ。あ、はい。好きです」
「お嬢さんは向日葵みたいな娘ぉやね」
「え、ええと、ありがとうございます」
「せやけど向日葵は、この家には似合わないんとちゃいます?」
「え」
相手の真意を取りかねて、和葉が小首を傾げる。不穏な空気だけを感じ取って、平次は相手に鋭い視線を投げかけた。
「折角上品なお庭やのに。下品やわぁ」
「え」
うろたえる和葉の一歩前に出て。平次が言い返すより早く静華の鋭い声が飛んだ。
「平次。和葉ちゃん連れて部屋におり。呼ぶまで降りて来たらあかん」
「俺もか?」
「あんたもや。あんたには、関係ない」
「関係ないことないんとちゃいます?寧ろ平次君の意見を私は聞きたいんやけど」
「……はっ倒されたいんか、おばはん。俺の意見なん前と変わらん」
険悪な空気に。和葉が知らず平次のシャツの端を握った。
その手を取って、何も言わずに踵を返した。黙って部屋まで連れて行く。物言いたげな視線に、言葉を捜した。
「誰なん?あのおばちゃん」
「……自称、俺の初恋の人の母親やな」
「え」
和葉が目を見開く。
「初恋の人って、あの舞妓さんの?せやけどお母さん亡くなりはったんちゃうかったっけ?」
「はぁ?舞妓って千賀鈴さんか?なんでそうなんねん」
「え、ちゃうの?せやったら誰?」
「……それは、まあ、1500年後にな。せやけど、少なくとも下におるオバハンの娘ちゃうことだけは確かや」
「……自称、って?」
「せやからまあ、騙りってやつや。あの雑誌見て勝手に言うてるだけやねん」
「へぇ……そんなんして、なにがおもろいんやろ……」
「初恋の人は自分や言うたら、自分も雑誌に載れるとでも思ったんちゃうか?」
「ふうん……」
釈然としない表情で、ズルズルと窓辺に寄って庭を見渡す。大輪の向日葵が、ここからでも見える。
「あのおばちゃん、何でアタシにあんなこと言うたんやろ」
「知るか。なんや、変な奴らやねん。思い込み激しすぎや。ま、そんなん騙ろうとする時点でおかしいねん。やろ?」
「うん……」
「別に気にすることちゃう」
「せやけど……」
窓に手をついて、それからコンと額をつける。
「アタシ、向日葵好きやのに」
「……」
「エエ花やと思うんに。嫌いな人も、おるんやね」
「そんなん、別に気にしぃなや。人それぞれやろ?」
「……下品、かな」
「花に上品も下品もあるか。単なる好みで品の良し悪しなん語られてもかなわんわ。せやから気にしぃなや。俺は好きやで?向日葵」
「ホンマに?」
「ホンマや。おかんもオヤジも好きや言うてたで。嫌いやったら毎年わざわざ育てへんやろ」
「……そうやんな」
「せやせや。あんな奴の言葉、聞き流しとけ」
「ん」
呼ばれて降りた時には例の婦人の姿はもうなく、静華が玄関で大量の塩を撒いていた。
静華が和葉と買い物の約束をしたのはその後。そして和葉が帰ってからは「いらんことするな」「親に迷惑かけるな」「和葉ちゃんに迷惑かけるな」と散々絞られた。
ああ。そういうことか。
今日の約束がキャンセルになって、静華がいつもに増して和葉に気を使っていた意味が今漸くわかった。
初恋の相手を騙った京都の女が編集部に連絡を取り、うっかり騙された担当者が平次の連絡先である携帯番号を教え、挙句平次は生まれて初めて携帯の着信拒否設定をする羽目になった。次は学校まで来るのではないかと戦々兢々としていた所、それより先に親共々服部家まで乗り込んで来て、所謂「親公認のお付き合い」を迫った後結婚話を持ち出したのだから尋常ではない。現れた女は相当に美人ではあったが、平次としては心動かされる要素は欠片も存在しなかった。これで家柄もいいというのだから笑わせてくれる。初恋の相手はもう見つかったと言ってもそっちが間違いで自分に違いないと引き下がらない。結局、「また来る」と言い残してなんとか帰っていった。
その後、騒動を把握した雑誌の編集長が服部家まで来て平謝りに謝ったのは言うまでもない。
そしてその母親だけが再び服部家を訪れた所に和葉が鉢合わせたわけである。
一連の騒動を、和葉は知らない。
あの母親が和葉の存在をどう誤解してどういう意図であの言葉を投げかけたのは定かではないし、和葉が何を何処まで察したかはわからない。その後幾分意気消沈していたので静華が何事もなかったかのように和葉を次の週末買い物に誘い。それで機嫌は直っていたのだが。
「流石に、もう来うへんやろ」
和葉が帰って後、もの問いたげな平次の視線に、先に静華が口を開いた。
「二度とうちの敷居はまたがせへん」
「……何言うたんや、おかん」
「あんたには関係ない」
相手がどうこうという以前に。「半人前のひよっこにお付き合いもましてや結婚もまだ早い」というのが服部夫妻のスタンスだった。平次としては相手に不足がある、と突っぱねた方が有効のようにも思われたのだが。
「……また、そのうち来るんちゃうか?」
「そのうち?」
「……いつか知らんけど。俺が一人前になった時とか」
「別にそん時やったら来ても問題ないやろ?」
即座の返答に思わずその顔色を窺う。どこか笑みの浮かんだその切れ長の瞳が、心持ち細くなる。
その目の語るところを察して、平次は視線を逸らした。
「任せとけ、っちうんや」
***
まだぼんやりと向日葵を見つめる幼馴染の後頭部を軽く小突く。
「痛!!なにすんの!!」
「お前こそ何してんねん。眉間に皺よってんぞ。そんな顔しとったら、不細工になんで」
「うっさいわ!!アタシやって悩みくらいあんの!!」
「悩むのはええけど、ここの皺は辞めとけ。も少し景気よう悩めんのか」
「笑顔で悩むアホが何処におんのよ!!ドアホ!!」
「誰がドアホじゃ!!」
「そんなん平次以外におらん!!」
背伸びして平次の頭を叩こうとするその手から逃れると、ベーっと舌を出して、それからいつもの笑顔で笑った。
その様子に少し安堵する。
「今年も、大きなったなあ」
「向日葵か?」
「うん。またたくさん、種つけるんやろな。なあ、種できたらもらってもええ?」
「ええんとちゃうか?なんや、お前んちの庭にも植えるんか?」
「うちやと無理やけど。綾小路警部んとこのシマリス、向日葵の種食べへんかなあ、思て」
「ああーー」
春先に京都の事件で出会った京都府警の警部はいつもシマリスを連れている変わり者だが、以来平次が京都の事件に何度か首を突っ込んだ関係で和葉とも顔見知りになった。最近平次が京都の事件に首を突っ込むたびに和葉が付いて来たがるのは、ついでの京都観光だけが目的ではないようだ。
「わからんでぇ。何しろ公家様のシマリスやからなあ。向日葵の種なん庶民的なものは食べへんかもしれへんで?」
「ほんなら、何食べんのよ」
「さあ……。神戸牛とか……てっちりとか……」
「リスって肉食なん!!??」
「ほな、マカダミアナッツとか」
「なんやのそれ?」
「木の実食うんやろ?カシューナッツしか食わへんとか、あるかもしれんで?ブルジョワやからなあ」
「そうかな……」
大真面目に思案顔になる横顔に、辛うじて笑いを堪えた。
「アホ、んなことないやろ。とりあえず持って行ってやればええやん」
「そうやんな」
「そらもう、ぎょうさん獲れるからなあ。一年分くらいになるんちゃうか?」
「あんましあげたら、迷惑かな」
「ええんちゃうか?おじゃる警部、友達少ないらしいから、喜ぶで、きっと」
「そんな失礼なこと言うたらあかんやん」
言いながら和葉も笑っている。笑った時点で同罪だ。
「ほな、そろそろ飯にすんで。俺が腕によりをかけて作ったんねんから、ありがたく食えや」
「……ご飯って、冷麦ちゃうの?どの辺に腕によりをかけんのよ」
「アホ。奥が深いねんで?絶妙の水加減、絶妙の茹で加減、付けだれも俺が作んねんからな?」
「え、そこまですんの?楽しみやぁ!!」
「任せとけ。そんかし鰹節削る所からやるからな。当分飯にはありつけへんからな」
「ええー」
いつの間にか傾いた太陽が、向日葵と二人の幼馴染の影を長く伸ばしていた。
***
……一人前になってまで、まさか今のままで居る気ぃちゃうやろな?
こ、こんな話になる予定では……全然……あの……あれ??
でもまあ、あんな雑誌に載っちゃったらこんな騒動の一つや二つはあると思うんですよねー。どうなんでしょう?
迂闊ですぜ、西の高校生探偵。まあとりあえず、和葉に迷惑かけない範囲で収めて置いて下さい。
ただ単に最初の水掛シーンが書きたかっただけなんですけどねー。どこでどうしてこんな暗い話に。んんー。
で、落ちはおじゃるですか。シマリスですか。なんだかな。
タイトルは、向日葵の花言葉らしいです。
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