もの凄い地響きがその空間全体に響き渡る。
竹刀の音、踏み込みの音、気合の為の掛け声。それらが入り混じり、それはもう轟音としか表現できない。
府警本部の剣道部稽古場。平日だというのにその中に服部平次の姿が見える。
「平次君……そろそろ……」
「まだまだやぁ!!次、お願いします!!」
10以上も歳の離れた相手の気遣いを払いのけ、平次は次の相手を見つけて稽古を開始する。
息はすっかり上がっていて、足元も少し覚束ない。体力の消耗は明らかだ。
そのせいか、万全であれば決して主導権を取らせることのない府警の若手剣道部員に打ち込まれる姿も見られる。
が、有効打は一本も許さず、隙あらばここぞという気合で相手に打ち込んでいく気迫には鬼気迫るものがある。
鬼そのものと言ってもいいかもしれない。
「なんや、今日の平次君は随分気合入っとんのやな」
稽古場に服部平次が来ている事を聞きつけ、久しぶりに飯でもと思って稽古場に顔を出した遠山は嘆息した。
「随分ボロボロやけど。彼はどれくらいああやって掛かっていっとんのや」
「基本稽古が終わってからずっとですから……もう、2時間近くになるんやないかと……」
「若いなぁ」
感心、というより呆れに近い。剣道は持久力と共に瞬発力を要する競技だ。
短時間に気合と力を全て凝縮させて技を繰り出す関係上、それの繰り返しを何時間も続けるというのは相当な気力と体力だ。
しかも平次の様子には手を抜いている様子は一切ない。一挙手一投足全てが全力投球なのが見て取れる。
かなりの疲労が読み取れるのに、その姿勢と手の内が崩れることはないのには驚かされる。圧されてるように見える時にも実際には相手に一分の隙も与えていない。
「ホンマ、平蔵の若い頃に似てきたわ。末恐ろしいとはこのことやな」
「本部長殿……にですか。確かに」
戸口にいた若い部員が苦笑いする。「確かに」は「似てる」ではなく「末恐ろしい」に対する感想に違いない。
ふと後ろに気配を感じて振り返ると、当の服部平蔵が稽古着姿で立っていた。
「なんや、平蔵。珍しいな。稽古か」
「ホットラインが入りおった。平次がおるから、今日ぐらい稽古つけたり、とな」
「ははは」
気付くと側にいたはずの若い部員はさっさと逃げ仰せ、既に道場の端にいる。
「しかし、既に随分ボロボロやぞ。お前と稽古したら、死ぬやろ、平次君」
「わしに掛かってくるかはあいつ次第や。ま、根性見せてもらおうやないか」
掛かってくるに違いない、という確信と、何があろうと手は抜かん、という覚悟。遠山は苦笑した。
平次の成長とともに会話の減った親子。仲が悪いわけではない。年頃の男はこんなもんだし、自分にも覚えがある。
その代わり、この親子は剣道を通して語り合う事が多い気がする。繋がっている、と言っても過言ではない。
「せやけど、どないしたんや。平次君は。今日は平日やろ。ガッコの部活ちゃうんか?試験期間でもないし」
「休んだんやろ。ガッコの稽古やと、生ぬるいんや」
「確かに随分強くなっとるからなあ。ガッコじゃ、敵なしってことか」
「いや」
平蔵が一歩道場に入ると稽古の合間の部員が全員一礼する。まだ稽古途中の平次の声は途切れない。
「今あれがやりたいんは、剣道の稽古とちゃう。単に気合が入れたいだけや。それやったら、自分と同等、もしくは上でないと意味がない」
「……なんかあったんやな、東京で」
遠山の言葉に平蔵が鋭い視線を投げかける。
「この連休、平次君と東京に行った時になんや事件に巻き込まれたらしいんやけど……。和葉もわしには詳しく話さんからなあ」
「平次も何も言わへんがな」
平蔵は静かに手拭をつけ始める。
「そういうことなんやろう」
***
「和葉、すまんかった」
「ん?」
関空への飛行機の中で、平次は漸く和葉に謝った。何度も何度も謝ろうと思って、結局ここまで言うことが出来なかった言葉。
毛利親子や、ましてや工藤のいる前では言えず。バタバタとした帰り道、やっと一息つけたところで。
「なに?トロピカルランドのこと?もうええよ。事件やったし、しゃあないやん?せやけど、今度はちゃんと連れってぇな」
「ええけど……あんなん、何が楽しいんや。俺にはようわか……」
つい反射的に軽口を叩いた平次は和葉に睨まれて口を噤む。
違う。今言いたいのは、そういうことではなくて。
「ま、今回はお疲れさんやったね。事件、二つも解決したんやし」
「あ、いや……」
「アタシの命も守ってくれたし。ありがとな」
「アホ。……お礼なん、言われる筋合いはないわ」
そんな、資格はない。
和葉を。和葉をまた守れなかったのだから。
勝算はあった。相手は人間で、しかも小者だった。付け入る隙はあると確信していた。
状況は片手一本で崖にぶら下がった時よりは格段に明るかった。少なくとも自分はそう感じていた。
けれども自分と、そして和葉の命が危険に晒されたことには変わりない。
俺はまた、守れんかったんや。
今更と分かっていても何度も反芻した。奴らに捕まるまでの自分の行動。どこに油断があったのか。
何故自分は和葉と共に捕らえられ、命を危険に晒すことになってしまったのか。あれは全て、自分の至らなさが招いた事態ではなかったか?
ズキン、と右手の甲に鈍い感覚が走る。
芯がしっかりしていて気丈な性格の和葉が、ずっと震えていたことくらい知っている。自分の背中で。
震えながら……それでも泣いていなかったのは、和葉の精一杯の頑張りだったのだと思う。
それに応えられなかった自分。
最後に泣かせてしまった自分。
もし。
犯人は、それでも自分が女性だからという躊躇いかプライドか、和葉を人質には取らなかったけれど。
もしあそこで和葉だけを人質に取られていたら。和葉に銃口を向け、暗号を解くよう平次に要求していたなら。
恐らく。一も二もなく暗号を喋ってしまっていたに違いない。
喋った所で、後で二人して殺されただけだろうが、それでも和葉を人質にとられたら、お手上げだ。はったりをかます余裕すらなかっただろう。
考えただけで背筋が凍る思いがする。あの時、そのことだけがずっと頭にあった。
犯人の思考を、和葉に向けさせてはいけない。和葉に銃口を向けさせないように。それだけを。
挑発することによって平次に危害が加えられれば、和葉が心配することくらい知っていた。それでも。
和葉自身に危害が加えられることに比べれば。自分勝手でもそうするしかなかった。
俺は。
最後かもしれない。そう思った時に本当に言いたかった言葉は、無論あんな言葉ではなかった。
けれど。自分の未熟が招いた事態を謝って、許してもらって、言いたかった言葉を伝える。そんなこと、許されるはずがない。言える義理もない。
俺にそんな資格なんない。守ってやれる力も持たへん俺が、和葉に何を伝えるっちうんや?
右手の甲に視線をやる。きっと一生消えることの無い、傷。
ダメだ。まだダメだ。和葉を掠められたあの日、大事だと確信したあの日。死なせたらあかんと痛感したあの日。
あの日から、俺は一体何をしていたのだろう。まだ足りない。もっと強くなる。そう誓って、頑張って、その結果は。……なんだったのだろう。
右手の甲の傷が、疼く。そう。あの時も。
手錠を掛けられたあの時もずっとこの傷は疼いていた。お前は何をしてたんや、と。平次を戒めるように。
あの時。決して和葉を死なせないと。和葉を危険な目には合わさないと。和葉を泣かさないと。誓ったはずだったのに。
まだ。全然足りなかった。
弱気になったらダメだと思った。余裕の言葉とは裏腹に見苦しいくらい悪あがきして。脳細胞フル回転でやつらをはめる計画を立てた。
計画どおり、全てが上手くいった。工藤も間に合った。結局和葉を泣かせってしまったけれど、それでも最悪の事態を免れるのが精一杯で。
「平次がアタシの命、守ってくれたんやもん」
和葉はそう言って笑うが。その笑顔が平次には少し痛い。確かに、二人とも無事だったけれど。
けれど、それまではずっと綱渡りだった。
犯人が切れて和葉に危害を加えていたら、工藤が駆けつけるより早く火がつけられていたら。
まるで心臓がそこにあるかのように、ズキン、ズキン、と傷が疼く。平次はじっとその傷跡を見つめる。
涙さえ、出なかった。泣きたい気持ちを通り越して、ただ己の不甲斐なさに胸が締め付けられる。
どれだけ努力すれば、和葉を守れる力が手に入るのかは平次には分からない。
守るなんておこがましいような気もする。しかし今は、その隣にいる資格すらないような気がする。
ただ。だからと言って何もしなければ一生それは手に入らないだろう。
「すんません。俺、明日ちょっと、府警本部の稽古に行きます」
思い立ったら吉日。東京から戻って即日、平次は剣道部の部長に電話を入れた。
部長はちょっと戸惑ったようだが、何も聞かずに許可してくれた。
これも自分に対する信頼の顕われであることを、平次は知っている。
和葉はあの時のことについてもう何も言わない。何かあったことをきっと気付いているに違いない父も母も何も言わない。
俺は。その期待に応えなあかんのや。
府警本部で厳しい稽古を自分に強いた所で、すぐに強くなれないことくらい知っている。
ただ、気合を入れなおすことが出来れば。これは一つの儀式といっていいだろう。
和葉は。和葉は待っててくれるだろうか。俺が強くなる日を。和葉を守ってやれるだけの力をつけるその日を。
隣にいるのに相応しい人間になるその日を。
待っててくれ、なんて偉そうなことは言えない。待っててはもらえないかもしれないという不安に負けている場合でもない。
ただ。俺は強くならなあかんのや。
***
床に、人が叩きつけられる音がする。あまりのことに、周囲の視線が道場の中央に集中した。
静寂の中、しかし平蔵はそれを全く気に止めない。
「立たんか!!まだや!!」
「おう!!」
バランスを崩した所に父の体当たりを受けて吹っ飛んだ平次は、気合と共にすぐに立ち上がり構えなおす。
立ち上がらなければ倒れていようと竹刀が飛んでくることは本能的に体が覚えている。
脚の力も腕の力も殆ど限界。竹刀を握る握力すらかなり危うい。声を出すだけで腹筋にも背筋にも負担が掛かる。何度か倒され、既に体中が痣だらけ。
が、それを自覚するのは起き上がるまでの一瞬だけ。
その後気合を入れてしまえば体中の痛みなど感じない。
「で、平次と稽古始めてどれくらいになりますのん?」
「一時間や。平次君、帰ったら多分そのままダウンやで。明日ガッコに行けへんかも知れんぞ」
「そんな甘えは許されへんこと、あの子もわかってますやろ」
携帯電話から響く静華のどこか楽しそうな笑い声に遠山は苦笑した。後ろから、まだ服部親子の激しい稽古の音が聞こえてくる。
平蔵が道場に入って軽くウォーミングアップを終わらせたタイミングを見計らって平次が稽古を申し込んで早一時間強。
竹刀と気合の声だけで語り合う(?)親子の姿は美しいような異様なような、なんとも言えない。
二人とも、化けもんじゃなかろうかという気さえしてくる。
「まったく、平次君の根性には頭が下がるわ。平蔵もなあ。もう他の部員は全員稽古終わって上がってるっちうのに全然終わる気配がない」
「そら、簡単に終わらせるつもりもありませんやろ。あの人も」
嗾けたのはあんたやろ、とは遠山もつっこまない。
「今日、一緒に飯を食うんは、無理そうやなあ」
「望み薄やと思いますで。特に平次は、稽古終わったら何も喉を通らんのとちゃいます?」
静華の声はあくまで明るい。平次のことを心配しないのはそれだけ信頼しているからなのだろう。
また一人、二人、稽古を終えた部員が更衣室に向かう途中、廊下で話す遠山に頭を下げて通り過ぎる。
「せや。さっきまで和葉ちゃん来てましたんよ」
「和葉が。元気にしてますか、あいつ」
一緒に住んでいる父親の台詞にしては不自然だが仕方が無い。どうにもここの所大きな事件があって禄に話もしていない。
「なんか、言うとりましたか?」
「いいえぇ。なんも話してはくれへんかったけど……。またどうせ、うちの平次が至らんかったんやと思いますし」
「いや、うちの和葉がなんかやらかしたんとちゃいますか。スミマセンなあ。いっつもついてかせてしもて。平次君の邪魔になってるんじゃ……」
「ほほほ。和葉ちゃんに向かって「邪魔」やなんて、うちが言わせません」
どうも。娘の和葉と静華は直接仲がよくて、静華は時に息子よりも和葉に肩入れしてるように思えてならない。
「遠山はんは平次のことを高く買うてくれてますようやけど……あの子もまだまだ半人前の未熟者。とても太鼓判押す段階ちゃいますわ」
どうやら先日の車内での話が伝わっているらしい。
一人娘の和葉を嫁にやるなんてことはまだまだ考えたくないのも事実だが、しかしどうせやるなら、という思いはあながち冗談ではないのだが。
服部平次なら。子供の頃から見知っているし、このところその成長には目を見張る思いがすることも少なくない。
背も伸びて体格も良くなってきたし剣道の腕もめきめき上がっている。学校の成績も優秀。人の評判は上々。推理に関してはまだまだ荒削りのようだが、そのセンスは父親譲りだろう。
少々無鉄砲な所があるのも否めないが、まだ若いのだしそれも寧ろいいのではないかと思える。
平蔵の子供の頃を知っている遠山にしてみれば、その姿がダブるのも無理は無い。
「しかしまあ、平次君もどんどん平蔵に似てきますしなあ。先が怖い……いや楽しみなんは、事実ですわ」
「そうやろか。うちはあの人に子供の頃は知らんから、なんともいえへんけど……。やっぱなあ、平次にはまだまだ精進してもらわんと」
静華の声が心なしか低くなる。
「遠山はんが許しても、うちが和葉ちゃんのことは許しまへん。もっとちゃんと和葉ちゃんに相応しい男になってもらわんと」
「はははははは。光栄ですわ」
苦笑するしかない。自他とも認める親バカなので和葉は可愛いし世界一だと思っているが、静華にここまで言われるとこそばゆい。
父親を見ても母親を見ても、傑出した人物には違いない。この遺伝子を受け継いで、その息子がそうそう下手な人間になる筈も無い。
無論、これからどう育つか可能性は無限大だが、その将来性に掛けても悪くないかなあ、という気がするのだ。
なにしろ。
あの両親に育てられたにしては、随分まっすぐ育ったものだ………。
決して口に出して言える事ではない。遠山だってまだ命は惜しい。
しかし要領のよさを垣間見ることもあるが、総じて平次はまっすぐで一本気で実直だ。時に不器用に思えるほどに。
その辺がまあ、平次君の愛嬌やねんけどな……。
とっくにぐれてもいいんじゃないかと思うことすらある。何があったかは知らないが、今時荒稽古で気合を入れなおす少年も珍しい。
卓越した才能を成熟させ一分の隙もない大人に成長してしまった両親と比較するにつけ、才能を持て余すかのように試行錯誤している少年には好感が持てる。
和葉のことは置いておいても、つい応援したくなるのも道理だろう。
道場からは、まだけたたましい竹刀の音と気合の声が響いてくる。
気合一閃。踏み込んでいったのは平次らしい。
一本、二本、三本……見なくてもわかる。平蔵にかわされながらも連続技を繰り出しているのだろう。踏み込みの音が澱みない。
「ま、遠山はんもうちのアホどもは今日は放っておいて、早く和葉ちゃんのところに帰ったげた方がええんとちゃいます?」
「おう。そうさせてもらいますわ」
ホントはまだ仕事がある。平次と飯を食った後、また職場に戻ろうと思っていたのだが、なんだかんだでこの道場で1時間足止めをくらってしまった。
今更戻るのもなんだし、今日は帰ってしまうのも手かもしれない。とりあえず緊急の仕事は全部始末してある。
泣き虫だった和葉も、最近は父親に悩みを打ち明けたり愚痴を言うことが減ってきた。
忙しくてどうしても側にいてやることができなかったのだから仕方ないが、やはり少し寂しい。
色々一人で考えて、乗り越えていっているに違いない。いつの間にか、大きくなったものだ。
早く帰ったところで、何もなかったような笑顔で迎えてくれるだけだろうが。
だが、帰れる日くらい早く帰って、一緒にいてやろう。
「ほな、また」
遠山は、携帯を切って歩き出す。
その背中では、親子の対話がいつまでもいつまでも続いていた。
すみません。府警本部の剣道の稽古が平日にもあるかどうかまで自分は知らないです。どんな風に稽古してるかも知らないです。
適当に書いてます……あううう。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
てなわけでーーーーー!!これくらいは反省してくれよ服部平次!!トロとかヒカリもんとか下んないこと言ってないで!!
つか、あんたその時計はどうするつもりですか!!和葉の目の前で値切ったものを和葉にプレゼントなんて許しませんよ!!
東京まで飛行機で往復する金があるくせになにを値切ってる!!器が小さいぞ!!うわーーーーーーーーーーーん!!!!!!
てなわけで、赤馬は私的に消化不良な感じなのですが……なんとか平次がカッコいい方向で!!ちょっと補完!!
……補完し切れてないよう。平次のドアホーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
遠山父がちょっと……かなり……平次に対して甘いですね(笑)
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